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2012-03-31

いろり通信から、五十鈴川だよりへ

331日(土曜日)本日20年間勤めた、夢が原を退職致しました。母、妻始め家族全員がお祝いの昼食会をしてくれました。朝起きた時には雨でしたが、徐々に雨がやみ午後には日が差し始めまして、このブログを書いているのは夕方4時半過ぎなのですが、まぶしい春の陽光に照らされた、庭を眺めながら書いています。

ところで、今我が家に娘の男友達のドイツ人のレイ君が、ホームステイしているのですがそのレイ君が、何とGOGLEでとりあえず、簡単な最小限のブログを作ってくれました。囲炉裏通信が終わったばかりなのですが、3月もとりあえずこれまでのように少しずつ文章は書いていましたので、思いもかけず急きょ、新しいタイトルで心機一転、引き続きブログを書くことにいたしました。

新しいブログの名前は、五十鈴川だより、です(http://isuzugawa.blogspot.jp/)。五十鈴川だよりのネイミングについては、またゆっくり書くつもりですので、しばらくお待ちください、ね。

これからは、これまでよりずっと時間ができますし、一年かけて緩やかに日高奉文事務所を立ち上げながら、その日に書いたブログは、その日にアップできるようにしますので、これまで同様、どうかよろしくお願い致します。写真もできるだけ自分で撮ってと思っています。

とりあえず、本日は囲炉裏通信から、五十鈴川だよりにブログが変わるということをお伝えしたく思います。今はまだ赤ちゃんのような五十鈴川だよりですが、可能な限り更新し充実してゆきたく思いますので、気長にお付き合いのほどどうかよろしくお願い致します。

まさかこんなに早く、ブログでの再スタートができるとは、本人も思いもしませんでした。終わりは始まり、というのはやはり真実です。あえて退路を断ち、ギリギリのところで先のことは考えず、一年一年、私らしい事をやりながら生活する方法を選択したく思います。

土取りさんと桃山さんが創作した浄瑠璃



2012-03-29

最後のいろり通信

後わずかで、私は社会的には定年となり、園長職を辞し、新しい生活といいますか、いわゆるセカンドライフを始めることになります。したがって、これで囲炉裏通信は終わります。園長日記という体裁で始めたいろり通信ですが、311以後世の中の情況も、私の中でも、何かが全く変わりました。

囲炉裏通信2年半の中で再三何度も同じようなことを書いていますが、私自身の中にも、緩やかになにがしかの意識の変化が訪れていることは私自身が一番自覚しています。それがたまたま還暦退職と重なるということを、自分としては前向きにとらえたいのです。

この意識の変化を大切に受け止め、これまでの人生でも何度かの大きな転機を、あえて新しいことを試みることを選択し、生きてきましたので、今回もまた、守りにはいるのではなく(守りにはいると言いますか、出来なくなる時が私の中での定年となり、余生に入りたい)これまでの経験してきたことを活かして、ささやかな内なる希望を試してみたいという、思いです。

今、なんとも言えない矛盾した気持ちが私の中に同居していますが、この内的振幅が大きいほうが出発には良いのだという気がします。東京を引き払い、20年、神様がくれたというしかない充実した時間を、夢が原は私に与えてくれました。しかしそれはもう過去のことです。

これからは未知の未来に向け、ひたすらささやかに、意識の共通感覚を持てる方々と、晩年の可能性を見つけることに、一回限りの貴重というしかない人生時間を過せたら、という思いです。

幸い、昨年の入院以来、自分の身体に対して気をつけるようになったせいかはわかりませんが、この数年では最も身体の調子がよく、身体が動く(意識が動く)ことの幸せを噛みしめています。還暦の自分の身体の手入れをしながら、人の参加があるかどうかはわかりませんが、少人数でも身体を動かしたり、声を出したりする、教室も始めようと思います。

ありがたいことに、もともと思春期からいろんなことに感動したからこそ、このような人生になったわけで、いまだに感動するばねのような精神は、時代に左右されず健在です。私らしい事を企画し、表現し、経済的には貧しくても、夢を共有する他者との豊かな人生を送りたく思います。

学校の勉強はそっちのけで、小さいころから生きて存在していることに対して、漠たる不安感を感じつつ、世の中に出てなんとか人生を送ってまいりました。世のしがらみを生きてゆく中で悩みつつもギリギリの生活の中で多くの方に助けられながら、なんとか還暦まで生きることができました。

ようやくまっさらな心もちで、再出発できる時間が、私の人生に訪れたこと、ありがたいことです。これからは、いわゆる晩年ライフを私らしく生きて、この年なればこその企画が出来る間は、今しばらくじたばたと生きることになるかと思います。今後ともくれぐれもどうかよろしくお願い致します。

ともあれ、この二年半ブログを立ち上げてくれ、更新を続けてくださったY氏、この場を借りて深く感謝します。心よりありがとうございました。お陰さまで、意識を集中して書くということの、苦楽を見つけることが出来ました。

最後に、この私ごときの拙文を長い間読み、間接的お付き合いをしてくださった方々に、お礼を申し上げ囲炉裏通信の幕を閉じたく思います。


福島南相馬の風景


還暦からの再出発

324日土曜日の朝です。珍しく今日はお休みなのでゆっくりと落ち着いてパソコンに向かっています。雨上がりのいくばくか肌寒い朝ですが、我が家の庭には濃厚な春の気配が立ち込めています。今年の冬は本格的に節電や暖房費の節約をするために、私は二階の衣装部屋(つまり一番狭い場所)で寝て過ごしました。この狭い空間が小さいころに帰ったかのように心地よく、今私はこの部屋にパソコンを持ち込んで書いています。明り取りの窓が一つあるのですが、高いところにあり外は全く見えません。密室で書いています。その日の気分でパソコンを移動して書いているのですが、他愛もないことですけれど、精神的なささやかな贅沢なのです。

さて、もうあとわずかで園長職を辞し、一応定年を機に中世夢が原を退職致します。夢が原は、20年通勤し、我が人生に信じられない数々の企画の含め,夢が原は言葉では尽くせない、多種多様で豊饒で充実した時間与えてくれました。そのことに対する感謝をこの場を借りて、はっきりと記したく思います。

これからの人生については、全く白紙ですが、これから一年の間にゆっくりと何人かの私の友人と相談しながら、個人の事務所を立ち上げることにしました。私が世の中に出て42年、ささやかに学んできたことを土台にして、企画を中心に、私自身も演劇の世界にいましたので、語ったり、読んだり、表現者としても再出発することにいたしました。無いそでは振れない中で、私らしい表現事を成したく思います。

時代は混迷の極み、本当に闇に包まれていてどっちに向かって歩み出していいものやら、私自身途方に暮れるような感じなのですが、夢が原に出会うまでは、ずっとそのような人生を歩んできた者として、年齢的にもこれが最後という感じの、オーバーですが決断なのです。先のことは、あまり考えず、一年一年今を生きる中でピーンと打つから湧いてくる何かを、ひとつひとつ地に足をつけて、企画実現してゆきたく思います。

昨年末の個人的な初めての入院は、ささやかな転機となりました。命について、生きること、生きていることについて、家族のこと、自分は何故企画するのか、表現するのかということについて、考える時間が突然与えられたこと、今本当に良かったと心から思います。

身を捨てないと、見つけられない世界があるのかもしれません。そんな自己感覚に支えられての、旅立ち(しゅっぱつ)です。日高奉文事務所立ち上げに関しては、また友人知人にご迷惑を書けますが、共に年を重ねながら、命を見つめる企画を応援していただけるように、ここに切にお願い申し上げます

藤原新也さんのWMを読んで思う

藤原新也さんのWMは本当に読んでいるといろんなことを考えさせられる。WMの読者でない方にはどのように伝えたらいいのかわからないのだが、読者の方と、新也さんの思いの意見のやりとりが掲載され、それが実に文明の恩恵をこうむりながら、物事を深く考えることもなく生きてきたのだなあ、という思いに私をさせるのである。

一言でいえば、新也さんのWMの読者は、真摯に今という、簡単には言葉化できない(ひとくちに瓦礫という言葉ではくくれないくらいに、瓦礫の中には被災された無限の個々人の記憶の集積があるのだということの、何と言う重み)文明の、ある種の病と、それぞれの方が、向かいあっている、そのことが伝わってくる。

とりあえず、私もしばらくは新也さんと同じように、瓦礫という言葉を使いますが、先月遠野にゆき、そこからバスで釜石に向かい、大槌と箱崎で、わずか2日でしたが、瓦礫の撤去をしました。スコップやつるはしで。そこ住まわれていた家の方の生活の歴史の詰まった、品々が出てきたとき(携帯電話や、写真や、家計簿、鍋などの調理具etc)なんとも言えない気持ちにおそわれました。

そんな気持ちに自分がなった時、来るまで時間がかかったけれども、現地を体感できたことは、このブログを書きながらつくづく行って良かったと思っています。またゆくつもりでいます。私も新也さんのように、ピンポイントでしか関われません。

私は還暦を迎えたばかりですが、何と言うのでしょうか、この度の大震災、分けても原子力事故以後は、歴史的大転、文明の末世的危機の、今まさにその渦中を、われわれは生きざるを得ない、生きているのだという思いにゆき着きます。

さてそこでどうするのかということ、そのことをささやかに、基底に据えて考えながらこれからの人生の時間を、今を生きる真摯な方々の声に耳を澄ませながら、一日一日大切に歩むしかないというのが、今の気持ちです。

ところで、出たばかりの藤原新也さんと、石牟礼道子さんとの対談集・なみだふるはな・読みました。何度か、眼がしらが熱くなりました。

生涯、手元に置いておきたい、一冊の本です。やがては、宝石のような本に囲まれて暮らせれば言うことはありません、が、今しばらくはじたばたする、自分自身から逃れられそうもありません。



想像力枯渇の恐ろしさ

私もそうだが、これからの還暦以上の世代は、おそらく多くの方が、如何に生きるかということに、おそらく物事を真摯に考えておられる方は、思いを致して居られるのではないかと思う。東北の想像を絶する大震災から、昨日一年がたった。

私は働き、家に帰っても一切TVも見ず、ただ冥福を祈り、一人静かに過した。経験しないことは、身体が感じないという限界感覚、だがあれから一年、かすかに何かを感じる自分がこの年になっても、育ってきつつあるのを、今、私は感じている。これは自分にしかわからないことだが、そこにしがみつくしかないというのが、今の私の現実だ。

いきなり話は変わり、個人的なことですが、私が生まれた生家。4歳から11歳まで過した(父の仕事の関係でその後住んだのは、高校の二年間)私の過去の思い出の幼年期から少年期の、いわば黄金時代を過した生家が、跡形もなくなり無味乾燥などこにでもある、アパートに昨年なった。

かって存在していた、記憶の思い出がいっぱい詰まった家がなくなるということのなんという寂しさ、父母が丹精して育てた、樹木や植物の一切が跡形もなくなるということの、無常感。

娘たちが育ち、私はようやく落ち着いて物事が考えられる年齢と、あれほどに欲していた自分時間というものが以前より増えた日々がようやくにしておとずれている。

そして今考える。この私が生きてきた、戦後67年の中での、私の60年という時代はいったいどのような時代であったのかということに関して、個人的な反省、内省、検証、をしたいという思いが強くなってきている。

家族の幸福、モノの豊かさや、成功、経済成長神話。私が世の中に出てから、42年故郷の生家のまわりの風景は一変してしまった。故郷に帰る度に喪失感におそわれた42年間だったと言っても過言ではない。

人間は記憶の生き物である。その大切な膨大な記憶の風景(あらゆる思い出)が無くなるということは、何を意味するのか。東北の被災地の方々がこれから先、消えることがなく抱え込まざるを得ないあらゆるトラウマ、喪失感を思うと、言葉がない。

人間とは何か、どう生きていったらよいのかわからないまま、世の中に出て、42年。いまだ私はどう生きるべきか、良いのか、悪いのかを、この度の震災を機に、再び考え続けたく念っている。

旅の哲学的作家・五木寛之氏

何とはなしに手にとって、つい読み続けるのが五木寛之氏の本である。私より20歳年上であるから。もうおそらく80歳になられる作家であるが、その精神は計り知れないほどに若い。今、本屋さんには親鸞の続編が積まれているから、現役バリバリである。

小説はともかく、18歳の上京したころから、氏のエッセイにかなり影響を受け、励まされてきた読者の一人なのだが、よもやまさかあれから40年近く晩年の入り口に再び、まるで再会するかのように、読み始めるとは思いもしなかった。

氏は、70歳を過ぎるころから、自分が引き揚げ時代に体験された思い出したくない辛い体験を、随分赤裸々に書かれ、自分は悪人であるから、あの過酷な状況を生き延びてきたのだと、書かれている。父と、五木氏(13歳)と弟と2歳の妹をともに、4人で。

五木氏の母は、敗戦時の痛ましい、情況の中でなくなる。今生きているのは、五木氏のみである。私の両親も北朝鮮の新義州の引き揚げ者で姉(3歳)と兄(6か月)と共に4人で命からがら引き揚げてきたことは小さいころ話に聴かされてはいたが、詳細を両親が語ることはほとんどなかった。五木氏一家は平壌からの引き上げである。私は完全なる戦後派である。戦前と戦後のあまりの相違は一人の人間としてしっかり考えたい。

先祖はどちらも九州の山の中の出である。ゆえに、勝手に親近感を覚えるのは必然という気がする。分けても因縁を感じるのは、高校生のころ・蒼ざめた馬を見よ・で直木賞をとられ華々しくデビューされたころ、文芸春秋の文化講演会で故郷の街に来られたのを、何故か私は聴きに出かけたのだ。話の中身はほとんど記憶にないが、さらばモスクワ愚連隊を、さらば息子は愚連隊、の話はよく覚えている。それとデラシネという言葉。私もデラシネの(根がない)ように今という時代を生きている。

氏の言葉には、氏独特の九州の訛りが感じられ、そのしゃべり方にも、私はかなりの親近感を抱いている。

さて、氏は人生を、4つの季節に分け、(学生期、家住期、林住期、遊行期)にわけている。私は林住期の真っただ中、先日たまたま図書館にその本が目に入ったので借りて読み終えたのだが、多岐にわたり思い至り、感じ入ることが多く、何度もうなずく自分を見つけた。

人生は、苦であり、芯からままならないということ。生きるということの意味、明らかに極めるべく、そのことを氏は、今も問い続けている。林住期は75歳のときに書かれている。答えはともかく、考え続け、問い続けている中で見つけてきた言葉を、氏はまるで釈迦のように繰り返し語る。風のように生きる(憧れる)旅の哲学的作家だと思う。

東北大震災後に訪れた意識の変化

何事にも拘束されない、つまり心に余裕の在る時間に、自然とわいてくる言葉を綴れるということが、この年になってこんなにも、ある意味で楽しみになるとは、ブログを始めるまで、思いもしなかった。

もうすぐ、囲炉裏通信は終わりますが、気まま日記は意識が健康である限り、人に読んでもらうのではなく、自分自身の日々の何気ない記録として、また自分自身に向かっての確認と励ましのために書きつづけようかと思います。

ブログは、なにがしか他者を意識して不特定の方に向けて書いている(また書くことになるように思います、今は少しお休みします)のですが、日記は極めて個人的な、思考確認の繰り返しになります。

おそらくこれからは、すでにお亡くなりになった私の尊敬する方々から、ほんの少しでもいいから、いくばくかを学びながらそちら側の方と共に、生きてゆきたく思います。現在を確認し生きるための糧として、死者の言葉に耳を傾けたいのです。

死者のことを考え、死者の言葉に耳を傾けるということは、還暦を過ぎ、これからの現在をしっかりと生きるためには私にはどうしいても必要なことです。やがてはそちら側に往くための準備を、可能ならやれるうちにと思うのです。その生活の中から、見えてくるものがあれば、企画の光が見えてくれば、望外の喜びです。そのためには学ぶしかありません。

私の本棚には、いつか読めるような時間が持てる暮らしが、訪れたら読みたいと思い買っておいた本が、随分並んでいます。それを読破するだけでも、かなりの時間を要するでしょう。

芸術は長く人生は短しとは、昔から言い古された言葉です。若いころには気づかなかったことを、50代に入ってから随分気づくようになりました。それによって、この10年間はかなり、非情な世の中の動きとは関係なく、個人的には落ち着いて過ごすことができたこと、幸運を噛みしめています。

ところで、今日は亡き母の命日です。母の写真を見ながら書いています。父は怖く、母は優しい、あの両親のもとに生まれてきたことを、今は心から感謝しています。

遠野BCの宿舎
明日は、東北の未曾有の震災から1年、命の不条理、経験していない空なる感覚。言葉がありません。

母の命日の朝に思う

何とはなしに手にとって、つい読み続けるのが五木寛之氏の本である。私より20歳年上であるから。もうおそらく80歳になられる作家であるが、その精神は計り知れないほどに若い。今、本屋さんには親鸞の続編が積まれているから、現役バリバリである。

小説はともかく、18歳の上京したころから、氏のエッセイにかなり影響を受け、励まされてきた読者の一人なのだが、よもやまさかあれから40年近く晩年の入り口に再び、まるで再会するかのように、読み始めるとは思いもしなかった。

氏は、70歳を過ぎるころから、自分が引き揚げ時代に体験された思い出したくない辛い体験を、随分赤裸々に書かれ、自分は悪人であるから、あの過酷な状況を生き延びてきたのだと、書かれている。父と、五木氏(13歳)と弟と2歳の妹をともに、4人で。

五木氏の母は、敗戦時の痛ましい、情況の中でなくなる。今生きているのは、五木氏のみである。私の両親も北朝鮮の新義州の引き揚げ者で姉(3歳)と兄(6か月)と共に4人で命からがら引き揚げてきたことは小さいころ話に聴かされてはいたが、詳細を両親が語ることはほとんどなかった。五木氏一家は平壌からの引き上げである。私は完全なる戦後派である。戦前と戦後のあまりの相違は一人の人間としてしっかり考えたい。

先祖はどちらも九州の山の中の出である。ゆえに、勝手に親近感を覚えるのは必然という気がする。分けても因縁を感じるのは、高校生のころ・蒼ざめた馬を見よ・で直木賞をとられ華々しくデビューされたころ、文芸春秋の文化講演会で故郷の街に来られたのを、何故か私は聴きに出かけたのだ。話の中身はほとんど記憶にないが、さらばモスクワ愚連隊を、さらば息子は愚連隊、の話はよく覚えている。それとデラシネという言葉。私もデラシネの(根がない)ように今という時代を生きている。

氏の言葉には、氏独特の九州の訛りが感じられ、そのしゃべり方にも、私はかなりの親近感を抱いている。

さて、氏は人生を、4つの季節に分け、(学生期、家住期、林住期、遊行期)にわけている。私は林住期の真っただ中、先日たまたま図書館にその本が目に入ったので借りて読み終えたのだが、多岐にわたり思い至り、感じ入ることが多く、何度もうなずく自分を見つけた。

人生は、苦であり、芯からままならないということ。生きるということの意味、明らかに極めるべく、そのことを氏は、今も問い続けている。林住期は75歳のときに書かれている。答えはともかく、考え続け、問い続けている中で見つけてきた言葉を、氏はまるで釈迦のように繰り返し語る。風のように生きる(憧れる)旅の哲学的作家だと思う。

虚空遍歴を読む

私ごときのささやかな歩みの60年の人生の中にも、振り返れば何度も転機があったのだが、その都度なにがしかの決断をして、かろうじて歩を進め、今を生きているということの、在り難さをしみじみと感謝する自分がいる。

今日は休日なので、眼の前の我が家の庭に、かすかに訪れている60回目の春の気配を感じながら(万物の生命力を)穏やかにパソコンに向かっている。朝一番、すっかり私の休日の友となった、愛犬メルとの散歩をし、ついでにこれもすっかり日課になったのだが、ささやかに決めている運動をして、妻の用意してくれていた朝食を済ませ、これから歯医者さんにゆく前のいっときの、ブログ時間というわけである。

3月も早、8日。本当に月日の流れは早いのだが、可能な限り一日一日を、自分なりに悔いのないようにということを、意識的に課していることもあって、自分で言うのも気がひけますが、充実した日々を過しています。

話は変わりますが、先月東北の旅の帰り、私の人生に、今も大きな影響を与え続けている、岐阜県郡上八幡在住の、最近はたんなる音楽家という括りにはおさまらないほどに、だれも足を踏み入れたことがない音の世界の探究を続けている、土取利行さんを訪ね一晩氏の話に、耳を傾けました。

土取さんの多岐にわたる仕事に関しては、このブログを開いてくださる方は、是非氏ホームページを読んでみてください。そして氏のブログを読んでほしく思います。氏がパリから帰国後、本格的に始められた音楽略記は目からうろこと私には思えるほどに、その内容は素晴らしいものです。

この半世紀のうちにおおよそ失われしまった、取り返しのつかないように思えるほどの、最重要な日本の現在の文化状況に関する、氏の危機感の真情の吐露が多岐にわたって、深く綴られています。

私自身が、いかほど氏の世界を理解しているかはともかく、氏がせきを切ったかのように語り続ける、情熱の根拠を今回の郡上八幡の立光学舎(氏と、無くなられた夫人の桃山晴衣さんが設立した音楽堂)での一夜の語らいは、私に知らしめました。

今後も、氏の言葉に耳を傾け続けたく思う私です。

尊敬する土取さんの記事
今、氏に薦められた、山本周五郎の虚空遍歴を読んでいます。

春を感じる朝

一雨降るごとに、何かしら春めいた感じが、そこはかとなく感じられる。仕事に出かけるときは真っ暗だったのに、ほのかに明るくなってきた。人間にとって明るいということは、やはりなにがしかの、救いであると感じる。

闇を突き抜けて、朝日が昇ってくると、何やら還暦を過ぎたこの身体にも、エネルギーが満ちてきて、いかに自分の身体が天と繋がっているのかということが分かる。

我が家のわずかな庭に、一本の梅の木があるのだが、いま白い花が見ごろである。それとチンチョウゲの花、水仙の花も健気に咲いている。やはりいい意味で年なのだと思う。若いころよりも落ち着いて、じっくりと眺めている、自分がいる。

全てはあるがままの、季節の移ろいの中に今年の春を感じられる、いくばくかの余裕を持てている、自分の幸福というものを、しみじみと感じてしまう自分がいる。世の中に、まっさらの状態で飛び出してから42年、気がつくと随分沢山の思い出の品に取り囲まれている。

数年前から、もうモノには執着しない、出来るだけものを減らす生き方を心がけるようにしている。どうしても、手放せないもの、これまでの自分の生活を支えてきてくれたものに、今後は囲まれて生活したいという思いは、年々深まっている。

年々、時代の行く末は混沌の度合いを増すばかりのように思えますが、どういうものか私自身の生活は、全く変わり映えのしない、たんたんとした静かな日々を送っています。囲炉裏通信を書きはじめてから、またたく間に2年と5カ月が過ぎましたが、この書いていた時間の密度の充実は、続けて書いた自分が一番わかっていますから、安心して囲炉裏通信に終止符が打てるような心境です。(でもまた、何か始まる予感がします)

こういった心境になるとは、書きはじめた当初は思いもしませんでした。時代も、状況も、そして自分自身も、おそらく変わってゆくのだというしかありません。

話は変わり、藤原新也さんの昨日のトークに、氏が高校生のころ40日間アルバイトをして買ったという、中国の磁器の写真がアップされています。今も氏と共に一輪の花が活けてある磁器、本当に気に入ったものと共に暮らせる、慎ましくも、かくも豊かな暮らし。

何とはなしに、自分がこれから目指す生活の、お手本はそんな暮らしです。あわてず、騒がず、ゆっくり、本当に大切な人や手放せない品物と共に、枯れてゆきたく思うのです。

我が家のナンテン
枯れゆく先まで、命を見つめ続けたく思うのです。

遠野Bセンターでの時間

釜石でお昼をごちそうになった

大槌でがれきをかたずけるボランティア





よもやまさか、還暦初日を遠野のボランティア(以下B)センターで迎えようとは思いませんでしたが、結果はそうなってしましました。

それも岡山からはとても遠い、遠野からバスで一時間以上かかる岩手釜石の大槌というところと箱崎というところで、わずか2日でしたが、瓦礫の撤去をすることができました。

このよもやの、わずかの経験はおそらく今後のこれからの人生のベーシックになりそうな気がしますし、すでにその兆候が戻ってからの暮らしに現れているように思えます。日中夢が原で働きながら、繰り返し遠野での出来事が思い出され、私のごく普通のなにげない暮らしが、ひときわあり難く感じられるからです。

遠野のBセンターの合宿所での3日間は、青春時代に逆戻りしたかのような、いきいきとした時間をたまたまそこに偶然居合わせた、Bに全国から参加されていた老若男女と持つことができ、それはたんなる物見遊山の旅とは異なる、私にとっては特別な時間となったのです。

それは、人間とは温かく、困っている人に対してこんなにも、その人なりの動きが出来るということに関しての素朴な驚き、発見以外の何も出もありませんでした。そしてそのことは還暦を機に、すべてのこれまでの自分の歩みを再点検しようと考えている私にとっては実に大きな気づきを与えてくれたのです。

これから晩年をいきいきと生きてゆく上での希望の根拠のようなものが、意識の隅に植え付けられるような経験時間を持てた、遠野時間。

それにしても、国外からも(アメリカ、カナダ、またアフリカガーナから里帰りして、
Bに参加している日本人の方とか)Bにされていましたし、失業している方、フリーターの方、人生を再考している方(私もそれに含まれる)リタイアしご夫婦で参加されている方、毎週一度参加を続けておられる地元の方など、ともかく今も総勢80名近い方々が、長短に関わらず、志を持ってBに参加されていました。

どんなかたちにせよ、その人らしいやり方で、東北の今回の被災地に足を運び、何かしらを直接感じるということは、同胞として大切なことだと思います。

囲炉裏通信は間もなく終わりますが、また何かが始まる予感も感じます。演劇とは出会いであるという、言葉が沁みます。遠野では人間の素晴らしさとの出会いがありました。

遠野での旅のことなど

宮城石巻にて

宮城石巻にて


早、三月一日、木曜日休日の朝久方ぶりに、パソコンに向かっている。何から書いたものやらという思いが、たくさんありまして、きちんと整理して書きとめるには、いささか余裕がないのですが、ほんの少しでも書いておきたく思います。

213日早朝出発し、岩手、宮城、福島、東京、郡上八幡と移動し、220日に帰ってきました。かなりハードな旅でした。もどって10日も立つのですがようやく普段の生活に戻りつつあります。この久方ぶりの短い旅で私が感じたこと、また旅での非日常時間の中で経験したことは、今後を生きてゆく上で、実に大きい旅になったということだけでも、ここに記しておきたいという、今は心境です。

したがって、今回、厳冬期の旅を、定年を機に敢行できたことは、私にとってはささやかな冒険ではありましたが、やはり年齢には関係なく、出来るときに出来ることを、(悔いなくやれるうちに)やっておくということの決断をして良かったということを、いま書きながら実感しています。

さて、話は変わりますが初日、岡山から新幹線を乗り継ぎ、岩手は新花巻で乗り換え、釜石線に乗り換え、遠野に向かいました。このローカル線で21歳の美しい女性に出会いました。(私のブログにコメントを頂いています。ありがとうまさか、遠野のボランティアセンターに向かい共に労働することになるとはその時は思いもしませんでしたが)岡山を、朝5時半に立ち、遠野には4時半に着きました。

結論から書けば、被災地にゆくには足がないので、私は生まれて初めて、なにかボランティアをすることにしたのです。結局、遠野には3泊し、2日ほど瓦礫の撤去に従事しました。バスの中からいきなり、無人の被災地を見た時のことは、眼底から消えることはないと思います。

このいきなりの遠野での、初めてづくしの中で感じたことの数々は、折々書きたく思います。一言でいえば、何事も外側から見ていただけでは何も実感しないということです。わずか3泊だけでしたが、共に身体を動かし、ご飯を食べ、寝て、話をした中からしか生まれて来ない関係性ということの貴重さ。

わずかの時間を共有した中で、実に印象に残る人間らしい素敵な面々に出会うことができました。遠野の小野克己さんという方からもコメントを頂いていますが、古里の宮崎と同じように、往きたいところが郡上八幡のほかに、もうひとつ加わることになりました。

これからの人生の時間、どのように過せばいいのかのヒントが見つかる旅となりました。