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2024-02-12

71才最後の日の朝に想う、五十鈴川だより。【老いつつ、いかに生きるのか、生きたらいいのか考え続ける】

 3連休の3日目の朝、連続五十鈴川だよりを打つ。書きたいときも打ち、取り立てて打つ気分ではないときも、お休みの日家にいるときの、特に朝は何かを綴って始動したい自分がいる。

今やすっかり、老人の心身機能調節五十鈴川だよりになりつつある、その事をどこかで自覚しつつ、過ぎし来しかたを振り返り、思い出にじっくりと耽られる時間をこよなく大事にしつつ、今を生きる糧にしようと心かけている。ただ思い出に耽るだけではなく、懐かしき思い出に耽ることができる今を、どこか寿ぎたい自分がいる。よく生きてきたものだ。

いかに生きたらいいのか考え続ける

老人性ナルシストと言われても全く頓着しないほどの厚顔無恥に自分がなってきつつある、その事もどこかで自覚しながらも、限りなく不自由であるなかでの自由を生きたいのである。人は移ろう、その事に自然に正直でありたいと思う。かなりの情熱を傾けていたことから離れ、ほかのことに情熱が移ってしまう自分とは何か。

以前はその事で自己嫌悪におちいったりしたこともあったが、コロナ渦中の手術後はまったくと言っていいほど、昔のように芸術や文化的なことからは目が遠退き、普段の日々の生活を何よりも大事にするようになってきた自分がいる。

今、私には2男1女の孫がいる。リモートでは度々話をしているが、昨年9月から直接あっていない。幼少期の変化は目を見張る。だからそのかけがえのないたまゆらのひとときを体感したく、今月末上京する。こればかりは長生きして、おじじになってみなければ関知し得ない感覚である。やがては成長しおじじなんて相手にせず、自分の世界へと羽ばたいてゆくのは当たり前、またそうであってほしい。

だからこそ彼らが小学校3年生くらいまでの時間、おじじに出来ることを、必要とされる間役にたちたい。有意義に生きたい、のである。

話は変わる。私と同じ歳で私の好きな草刈正雄という俳優がいる。詳細は割愛するが、昨日夕方NHKのファミリーヒストリー特別版をたまたま見た。以前特別版ではないのも見ていて感動したので、すぐに見いった。

お父さんはアメリカ人、生き別れになりお母さんは一人で草刈正雄さんを立派に育て上げる。草刈さんの父探しのファミリーヒストリーに私は熱く打たれた。97才、草刈さんのお父さんの姉との再会の場面はまるでドラマという以外にないほど、劇的だった。

美の壺や色々な役柄で、ますます独特の存在感を表現している草刈さんのキャラクターは、出自から現在までの一言では言葉に尽くせぬ、経験や体験の積み重ねが、醸し出しているのだと府に落ちた。俳優とはなんと不思議な存在であることか。すべてが無駄なくいかされる。

父探しの旅の果て、写真の中の父と廻り合い、アメリカの素晴らしい家族と再会する。もらい泣きした。最後に草刈さんが言っていた。自分は母一人子一人で寂しく育ったので、家族がたくさんいるのが嬉しいと。

草刈さんのファミリーヒストリーを見ながら、私も我が家族に思いを馳せた。この世には星の数ほどの家族がいる。悲喜こもごもまるごと全部抱え込みながら、人間は必死で生きる。浮き沈みがこの世の定め、運命を生きるしかないのが悲しいかな摂理である。番組を見ながら私は思った、草刈さんはその運命を受け入れ、勇気をもって真っ正面から立ち向かったからこそ、女神が微笑んだのだと。

私が【間違いの喜劇】に惹かれるのは何故なのだろうか。イジーオンは家族と再会するために命を懸けて、老いてなお旅に出る。帆船の小さい船での家族探しの旅。シェイクスピアはなぜこのような物語を書いたのだろうか。シェイクスピアの作品の登場人物は運命と対峙する人物が多い。そこに私は惹かれる、のだ。

草刈さんのイジーオンが見てみたいと突然私は思ったが、まずは自分が今しばらくシェイクスピアのハムレット、ほかも元気なうちにもっと深く味わい繰り返し音読したくなってきた。

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