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2021-07-31

暑さ対策に知恵を絞り、今を生きる愉楽を、自分の体と対話し見つける、無常の夏。

 予定より早く生まれた次女の孫と娘のお世話に一昨日から妻が上京し、しばらくひとりでの生活が続く。メルと花の世話も含め、家事生活全部こなさないといけない。だが、いつも書いていることだが、状況に応じてやることの優先順位を変え、この状況を乗り切るべく生活したい。

今週も猛烈に感じる暑さの中、午前中のアウトドア労働を続けている。手術退院後4か月が過ぎ、体重は以前より2キロほど痩せているが、身体の動きは全くといっていいほど以前の様に動けている。アルコールを(医者には少しなら大丈夫だといわれている)一滴も口にしていないし、野菜中心の食生活に切り替えたせいなのかもしれないが、すこぶる体調がいい。

昨年の夏は、暑さの中弓の稽古他、頑張りすぎたのだとの反省から、今年の夏はとにかくのらりくらりと体調管理に留意し、いかにこの暑さを しのげるかの暑さ対策を静かに思案実行している。

年齢的に、この暑さの中での肉体労働老いバイトは、客観的には大変にも思われるかもしれないが、本人である私は今日も何とか身体が動いてくれたことに、至極ご満悦なのである。ささやかなわが愉しみにしがみつくのである。夏の朝、紫外線対策万全での汗かき労働は気持ちがいい。(気持ちの悪いことはしないのである)

オーバーではなく、今日一日をいかに生きてゆくのか、ゆかないのか、にしかあまり頭が働かない、されど私の夏の日々。今も続く出口の見えないコロナ非常事態生活の中、アウトドアでの労働アルバイトがどれほど在り難いか、私自身がしみてわかっている。

猛暑の中での老いゆく肉体労働、やがてはできなくなるのが摂理なのだが、先のことを憂える暇があったら、今この時をこそ、今日一日をしかと過ごすことにこそが、私には大事なのである。(そうこうするうちに秋風が吹く、目には見えずとも)

このコロナの猛暑の夏をいかに乗り切るのかに知恵を絞り、しばしの老い力、哲学的に沈思黙考、わが体との対話を続けてしのぐのである。(これを楽しめたらいうことはない)

【水を浴び・蝉しぐれきく・老い力】このところ午後の水浴、水風呂読書が私の酷暑対策である。昼食を済ませ、風通しの良いところを見つけ、しばし午睡。起きてから一時間以上の水風呂読書が日課となっている。

午後は陽が落ちるまでは外には出ない。早寝早起き、目が覚めたら起きて頭が動くうちに肝心なことは済ませる。毎日のように日の出を眺め、(祈り)このところは早朝の月を眺め、宇宙の彼方に想いをはせ、(ああ、何千億無数の星々に癒される)人間界のせわしなき、いかがわしき、そして素晴らしさ、あたまがオーバーヒートしそうな、考えるといかんともしがたき不条理極まる世事万端には、距離を置きつつ、超個人的には五十鈴川だよりを打ちながら、考えないといかんのだととの、絶対矛盾的、無常の夏を生きているといったあんばいである。


2021-07-25

昨日早朝、次女に第一子男の子が生まれました。うたかたの蝉しぐれを聴きながら、想う。

 極めて個人的な事を綴り打てる老いの一滴、五十鈴川だより。昨日早朝午前6時過ぎ、次女に待望の男の子が無事に生まれた。義理の息子から、産まれましたあ、のメール、その後すぐに電話があった。息子はコロナ渦で母子に面会できないけれど、父親になった喜びが、聲から直に伝わってきた。

私は電話ではなく、母に知らせるべく、自転車に飛び乗り報告した。米寿を一人生きる、母は相好を崩した。暑さを一蹴するかのような朗報。その後一時、家族間でしばし祝福メールのやり取り が飛び交った。予定より早く、予期せぬ思わぬ喜びの展開に、私と妻は、わけのわからぬよかった感にしばし浸りきった。

ころなの猛威のなか、真夏のオリンピック開催直後にこの世に顕れた男の子である。長女の男の子とは、また違う感慨が私の中に静かに湧き上がっている。

もう何度もかいているが、若い頃の私は、親になるのがどこか怖かったし、家庭を持ち父親になれるなどとは思いもしなかったが、気が付いたらどしょっ骨の座った女性のおかげで、二人の娘の父親になれ、その娘たちが、それぞれ母親になれたことに、どこか夢を見ているかのような 、コトバかしがたい思いにとらわれるのである。

37歳で父親になった、なれた時に想ったことを今でもはっきりと思い出すことができる。二十歳までは何が何でも育てると固く決意したことを。二人の娘は私の思いをはるかに超えて、信じられないほどすくすくと育ち、あっという間に巣立っていった。

子育ての秘密なんてものはない。恥ずかしいから打たないが、母親の愛情がすべてではないかと私には思える。男親はうれしくもかなしくも、母親と伴走する同士(志)である。ほとんど何も余計なことは考えず、ただ働いた。そしていま想う、振り返り、二人の娘たちが思春期を迎えるころまでの、親子4人での生活が人生の黄金期であったのだと。

そして古希を目前 にしてあらためて思う。二人の娘にそれぞれ男の子が授かり、二人の孫のおじじに突然なり、そしていよいよ考える。

孫たちのためにも、娘たちのためにも、未来のおじじとしていかに存在してゆけばいいのかと。3歳の孫の日々成長する姿、そして生まれたばかりの孫の存在は、私の未来の足元を照らす、希望の明かりである。

物言わぬ赤ちゃんの存在は、たとえようもない。まさに神からのプレゼント、しばしの摂理的預かりものというほかはない。この小さき存在に、巡り合えた時に、(突然我が家にやってきた)私は信じられないほどのエネルギーが湧いてきたことをいまだ忘れてはいない。娘たちの存在が私に全うに親として生きる意味を教えててくれたのである。

再び、娘たち未来家族を、宇宙の地球の片隅でささやかに見守りるべく、おじじとしての在り様生きる意味を、突然この世にあらわれた孫(たち)の存在は啓示、導いてくれる(ように思える)。


 


 


2021-07-23

2021年、東京オリンピックが開幕される朝に想う。

 朝焼けの雲が美しく窓から望める。本格的なこの数年の異常気象ともいえる夏の暑さはまだ始まったばかりである。そのような中、今日ごり押しオリンピックが開幕する。(一部の競技はすでに始まっている)

第5波のころなの、先行きの予断を許さない猛威の中での 、まさに歴史的なパンデミック渦中での大会の、始まりである。ただの一人の庶民として想うのだが、いちいち打たないが、あまりにもの大会関係者、政治家のお粗末さ、コトバの内実の伴わない軽さ。正直日本人の一人としてあきれ果てている。(その報道が瞬時に世界をかけ回る、お恥ずかしい)

こうも理念とかけ離れたオリンピックが開催されるその歴史的出来事を、可能な範囲で、真逆な意味で、冷静に、これからの大会期間を、初老凡夫としてはどこかあきれ果てながらも見守るにしくはない。

私はスポーツがどちらかといえば虚弱体質で、小さいころから苦手であったことが起因しているのかもしれないが、勝ち負けを競う競技にはあまり関心が持てない。勝者が表彰台に上り、国威発揚の場になり、メダルの色を命がけで戦うオリンピックには、どこかで生理的についていけないからくりのようなものの匂い(気色悪さ)を感じている。

だが矛盾、誤解を招くかもしれないが、政治的利害、経済格差、国境を超えた、人間性人柄、お国柄が競技の中で浮かび上がる、表情やしぐさの中にコトバ化しえない感動が伝わってくるその瞬間をこそ見てみたい。(人間的に勇気のある素晴らしい選手の存在は伝わる)日本人選手の活躍だけを応援する愚は、もう私にはない。人間のオリンピックでなくてなんの祭典であるのか。

(忽然と話が変わるが、大谷選手がなぜあんなに人の心を打つのか、その答えはコトバにはできない。ピュアな表情や振る舞いは、全人類、特に子供に伝わるのである)

このようなことを打ち始めたら、切りがなく打たないといけなくなるのが、わずかでも打っておきたい。まさに異常事態が発令されている最中で開催される今回のオリンピックは、どう考えても、やはりどこか漫画チック、異常であると個人的に感じる。

コモンセンス、常識とはかけ離れたデジタルによるVR世界が 、まるでリアルワールドであるかのように出現し、私を含めた国民のほとんどは、画面を通してしかヴァーチャルでしか、編集された一方向のオリンピックしか、見ることができないという、不条理極まる、無観客での、かってない歴史的な大会を目視することになる。

初老凡夫としては、この大会が何かの黙示録にならないことをひたすら祈るばかりである。時の為政者は、過去のオリンピックを数々政治的に利用してきたが、今回のコロナパンデミックは、皮肉にもそのオリンピックの水面下のあまりにもの魑魅魍魎、奇妙奇天烈さをあまねく天下に、白眉にさらし露呈した、気がしている。(その点はコロナの効用とでも呼ぶしかない)

国民の大多数が、こころになにがしかの不安感や閉塞感を抱えている状況下、脳天気にオリンピックを楽しんでいられるような時代ではないことを、五十鈴川だよりにしっかりと打っておきたい。

ウガンダの選手が、オリンピックを利用して日本に職探しに来て叶わず、母国に送還されたが、世界の多くの国々の人々が日々生活している苛酷な現実や困難を、ささやかに生活している初老凡夫としては、見過ごせない。

数字化できない世界の民のかなりの人々は、オリンピックを楽しむどころではなく、日々をいかに生きるのかに、必死なのである。まるでこれでもかと繰り返し繰り返される映像と音響によるヴァーチャル画面での、ワンウエイオリンピック、何か言葉かしえない不気味さを、私は感じる。

厳戒態勢の中での祭典、検査検査の手続き会場、ヒトのいないスタジアム、選手村その周辺のあまりの真夏の静けさ、あらゆるおもてなし交流は中止。

大会関係者、選手にもコロナ陽性者が増え続ける。でもオリンピックは始まっている。アスリートは何を賭して金メダルを目指すのか。何のための、誰のための、オリンピックなのか。違和感がぬぐえない。

 


2021-07-21

賀川豊彦氏の存在を知り、著作に触れ、そして想う夏の朝。

 私は賀川豊彦という、キリスト者であり作家であり、その生涯、まさに奇特な稀人というしかない生涯を生きたかたの存在を、土取利行さんに教えていただくまで全く知らなかった。

この数日、猛暑の中ゆっくりと氏の書かれた【一粒の麦】という 書物を読み進めている。賀川豊彦氏の略歴を読むと、1888年に兵庫県に生まれ、1960年にお亡くなりになっている。(ルーツ、両親は徳島県、徳島県には賀川豊彦記念館があるとのことなので、訪ねたいと思っている)

一粒の麦。氏の本を読むのは、【死線を超えて】に続いて2冊目である。私が今読んでいる文庫本は、1983年、社会思想社から出版されている。私が31歳、これからどう生きてゆけばいいのか、青春時代の終わり、いまだ悩めるハムレットの渦中を生きていて、富良野塾に入塾した年である。

あれから、38年の時が流れ、私は賀川豊彦氏の著作に土取利行さんとの、縁のおかげで巡り合えたことになる。生涯をキリスト者として生き、運命的に数奇にしか生きられず、絶えずキリスト者としての真摯な歩みを、自らに問い続け、数々の降りかかる困難をものともせず、閉じた生涯の本にこの歳で巡り合えたのは、何かの機縁で結ばれているのではないかと、ふと物思う私である。

私はまったくといっていいほどに、特定の宗教には縁がなく、どちらかといえば極端に走らない、無節操極まる、森羅万象、万物の存在に感謝し、ご先祖に向かって祈るくらいの、手を合わせる程度の信心しか、持ち合わせていない凡夫である。(だが今後はいよいよもって私にもわからない)

話を変えるが、私が賀川豊彦氏の著作を読み進めることができるのは、今を生きる私にとって氏の書かれている当時の 時代背景、庶民の生き難き生活の内実、事情が生き生きと活写されていて、言葉の力によって多くの生活困難者、底辺をまるで出口無し、過酷極まりない貧民窟の暮らしの人々の姿が、これでもかと浮かび上がり、私のささやかな老いの想像力を打つからである。

明治、大正、昭和の激変に続く激変生活のなかでの(そしておそらく令和の今も、飢えてはいないにもせよ、庶民の本質的な、弱者の生活環境は変わっていないように思える。心の飢えという意味では、現在の方が酷薄であるかもしれない、私が実際のいちいちを深く知らないだけで)一般大衆の生活の大部を、子育てを終えた私はあまりにも知らない。

賀川豊彦氏の書物は知らしめる力がいまだ十分に存在する。機械化される前、デジタル以前の生活の様子が、生々しく言葉が私に迫り打つ。まるでノンフィクションのように、神の代理人のように、庶民の苦悩の困窮改善に、キリスト者として見て見ぬふりができない。その点は真にキリスト者として人生を生きられた中村哲先生をほうふつとさせる。 

いかに生きてゆけばよいのかを、キリスト者として敢然と言葉を紡いで吐き続ける姿真摯極まる文体は、凡夫に今を生きる初老の私にも 迫り打つ。そして私の個人的かろうじての記憶の原風景ともいえる、機械化される前の農村、漁村の人々の生活の姿が、読んでいるうちに忽然と蘇ってきた。

記憶の底に眠っている脳のシナプスが、攪拌され呼び覚まされる。氏にしかなしえない文体は、時空を超えてキリスト者ではない私にも迫ってくる。そして今更ながらに真の意味での知ることの大切さを私に教える。曇りのない目で、想像力を全開にして未知の世界を読み進む、ついこの間までの日本人の、私を含めた多くの人々が忘れてしまった生活の記憶を。老いゆく自由時間の在り難さのなか、読む力を、勇気を持たねばと念う、のである。





2021-07-18

手島圭三郎全仕事を、小さな声で音読しそして想う。

 朝焼けが美しい夏の朝である。移りゆく夏の雲をコーヒーを飲みながら眺めていたら、何も考えずただ打ちたくなった。

老いの効用というものがあるのだなあ、と最近以前にもまして思うのは面の皮が 厚くなり、少々のことには動じなくなり、喜怒哀楽の感情の起伏が弱まり、薄くなってきつつあるという認識が深まっている。

私はこれをいい意味に捉えようと考えている。今後は可能な限りの範囲で(すでに何度か打った気がするが)努めて気持ちのいいこと、身体が喜ぶことを最優先、身近な人との時間を大事に日々を送りたい。

そのうえで、コロナ後を見据えささやかに生きている。コロナ渦中生活をただ私は静かに生活できている今を、どこかまたとない時間を与えられたのだと、よかったとの思いでいる。

まるで、判を押したかのような行動範囲での生活、だが、こころはどこか自由にときはなたれている蟄居生活を私は楽しめている。だから能天気に五十鈴川だよりが打てる。

家族やほかに、何か予期せぬ事態が出来したら、五十鈴川だよりを打つどころではない。どこかに余裕、遊び心がなかったら五十鈴川だよりは打てない。3月の手術入院でひと月五十鈴川だよりを打てなかったが、いつ何時打てない状況が起こるかは、未知である。

だから、打てる時に思いのままに打つのである。まるで子供のように自由自在に言葉遊びをするかのような、遊ぶ五十鈴川だよりを打てたらなあ、との思いなのである。自由気ままにスイングするかのような、老いのたわごとを、つづり打つ。

そのような戯れ文を、読んでくださっておられる方がいることについては恐縮至極、うれしくもあり難く、この場をかりて深く感謝する。

話を変える。今手元に手島圭三郎全仕事(絵本塾出版)という本がある。もう2週間以上手元で眺め、凝視し、時に声を発し珠玉の作品を 体で感じようと努めている。

この7年以上、シェイクスピア遊声塾で、私の好きなシェイクスピア作品を音読朗誦してきたが、卒音読というのではなく、シェイクスピア作品に拘泥するばかりではなく、今現在の私の体に、こころに染み入ってくる作品を声に出したくなってきたのである。

手術退院後、まるでお告げのように土取さんを訪ね、手島圭三郎という木版画による絵本作家の存在を知らされたのも、何か勝手にお導きを感じてしまう私である。

ゆるぎないデッサン力に裏打ちされた、北海道原始の森に生きる生き物たちの生態の、氏にしかなしえない木版画の素晴らしさに私は魅了された。そして木版画に呼応する、シンプルな表現の、厳粛な言葉にうたれたのである。

恐る恐る、私は自室で小さな声で 【しまふくろうのみずうみ】を読んだ。初めて絵本を読んだのに、気持ちよく音読できたのはなぜなのかはよくわからないが、とにかくスーッと音読できたのである。シェイクスピア作品を読んでいるときとは、まるで体の感覚が違うのである。何か老いゆく体の奥深くで暗示的な啓示のように声が響いたのである。

今私は手島圭三郎さんの絵本の部屋での音読を、コロナ渦中の楽しみとして続けようと思っている。そして折が来たら発表する場を持ちたいとおもうまでになっている。命を削る様に版画を削り、絵本を創り未来の子供たちに伝えようとする、そのお姿に言葉にできないほどの崇高さを感じた。

私にできることは何か。手島圭三郎さんのおもいの一滴でも、声に出して伝えられることがもし出来たら・・・。と私は今思念している。

 


2021-07-17

梅雨が明け、静かな夏の朝に想う。

 梅雨が明け、いよいよ暑い夏がやってくる。そしてオリンピックがこのコロナパンデミック渦中、ごり押し開催される。だが変異し続けるころなの猛威の先行きは、以前としてようとして出口が見えない。

もうすでに、いい意味での人生時間の大部を過ごせた私には、あらゆる日々報道される事象、出来事、ニュース等が、どこか遠くに感じられるのは老いているからなのだとの自覚がある。

 だから、うかつな発言や、身に余る手に負えないことに関しては、老いの沈黙に身をゆだねるにしくはない、との苦くもどこかであきらめにも似た気持ちで、日々自分の生活をしっかりと送るに務め、足元から遠くの国を眺めるかのようである。

多分おかれている立場や、人生年齢で限りなくオリンピックに対する意見、評価、考えは全くといっていいほど異なるに違いない。正しい、絶対性はない、無数の星のように無数の真実があるだけである。世論調査というものが、度々報道され微妙に変化するが、いったん始まったら、あっという間に世論は変化する。人間という器は節操がない。(私のことです)

変化するのは世論だけではない、私自身も変化する。だから老いの身とはいえ、不確かな自分というものを、どこかで懐疑的に生活する術のようなものを、思惟する力を持たないと、きっと後年流されていたのだと、悔いることになるのではと危惧する。だが危惧ばかりしていても致し方ない。

だから早い話が、 よくはわからないことに関しては五十鈴川だよりでは、ほとんど触れないようにしている。もっと書けば、老いとともに生きる関心事は、コロナ以前の自分とは全くといっていいほどに変化しているからである。もうほとんど私の関心事は、現世にはないのである。(だがかすかにはある、だから考える)

このコロナ渦中生活中での初めての手術入院で、そのことはよりはっきりくっきりとしてきた感がある。たぶん手術入院しなければシェイクスピア遊声塾を閉じることは、しなかったのではないかと思う。

あまり五十鈴川だよりを読み返すことはしない私だが、(変換ミスが多い、でもいいのだ、わかる人は分かる)術後順調に回復しても、退院後よたよたとつづった五十鈴川だよりを時折読み返しては、今在る生の営みの何という有難さかと、なんてことはない日常生活が沁みるのである。

一寸先のことは神のみぞ知る。だがこの足りる感覚さえ失わなければ、もうしばらくの間、つつましくもシンプルに動ける自分との対話を、五十鈴川だよりを打ちながら、送れるのではととの淡い期待がある。 

期待は自分にするものである。そのうえで世代を超え、世界観や感性を共有できるような方と共に、(身近であれ遠くであれ)これからを生きられれば、それでいいとの覚悟が、コロナのおかげで醗酵してきたのである。

若いころ、(とくに18歳から20歳まで、イギリス遊学を思いつくまでの3年間)未熟を絵に描いたような私は、何の 自信もなく(いまもだが)八方ふさがり、四面楚歌のように日々を送っていたが、それぞれの年代で一つ一つ、苦手なことや降りかかった困難をクリアするたびに、ささやかな自信のような手ごたえを自分の中に見つけられたからこそ、生き延びることができたのだと思える。

自分の体に(命に)期待すること以外、ほかにすがるものなかったし、数少ない巡り合えた友人や、大切な人に支えられて生きている、いられるのは現在も変わらない。

自分という存在が、宇宙のちりと化した時に、おそらく世界は消滅し、母なる大いなるコトバ化しえない静かな闇のなかにきっと帰依してゆくのだと、先の手術入院で得心した。(ように思える)

得心したり、達観したら、五十鈴川だよりを打たなくてもいいのではという気もするが、そうはいかないのは何故か。私自身にもわからない。わからないからこそ、面白いのだ。身体は川の流れのようであらないと、澱むからである。(悩み問題意識を持ち続ける)体の細胞が日々更新しているからこそ、命は存在する。大いなる命をいただいたのも、ハムレットふうにいうなら神の摂理である。

老いゆく時間は、これから苛酷さ、酷薄さヲ、(生の真実を)私に突きつけるだろう。私にだけではない、全世界の万人の老いゆく人たちに。だから、ずいぶんと水気のなくなりつつあるわが体をいたわりながら、身近な大切な存在を大事に歩まねばと、今朝のおもいを打つ五十鈴川だよりである。



2021-07-10

シェイクスピア遊声塾、一度閉塾、自分自身をリセットすることにしました、そして想う。

 今年は3月に手術入院したがために、夏野菜を植える時期を逸したが、それでも退院後わずかな苗を買って植えただけなのに、天と地の恵み、トマトやピーマンやナスが実り始めた。

育てた野菜をいただけるのは老いゆく時間の中での新たな楽しみの一つ、命をいただく。中世夢が原で働いていたころは、このような時間が自分の人生で持てるとは思いもしなかった。自分という不確かな器は、人生年齢と共に生活の中で変化するのである。

時折、自分でも無(不)節操にというしかない気もするのだが、生きるのにどちらかといえば不器用なタイプであると自覚する私は、折々の転機に、それぞれの年代で決断を自分に課し、自分の可能性を求め、鼓舞し、何とかこの年齢まで歩んでこれた(きた)。

そして、今日もまた今日のささやかな思いを打ちながら、流れてゆく五十鈴川だよりを打てるいまを、どこかで感謝する。いつ打てなくなっても悔いはないとの思いを籠めながら。

思えば、1970年18歳で上京してから、いづれも初めての様々な仕事を経験し、生活しながら、苦悩と苦渋のはざまを往還し、青春時代に終わりをつげ、家族に恵まれ、娘たちが巣立って、私はいよいよ老いの佳境に差し掛かり、コロナ渦中の試練の今を生きている。

コロナが出来するまで、61歳で立ち上げた(五十鈴川だよりとほぼ同時に)シェイクスピア遊声塾の週に一度のレッスンに私はかなりの情熱を燃やして、充実した生活を送っていた。だが、コロナの出現で塾は閉じることを余儀なくされ、1年4か月になろうとしている。

突然レッスンができなくなり、当初はかなりの戸惑いが、自分の中にも生じたのだが、世の中に出てからの半世紀を振り返るには、またとない時間を与えられたとの思いに切り替え、思わぬ充実した静かな生活が送れている。

上京し、青春青年時代、演劇舞台芸術やあらゆる文化にどこかで救われながら、渇望、エネルギーをいただき、あまりにも奥深く広い演劇芸術の世界を、かってに学び、生活者として何とか生き延びてこれた、きたとのおもいがある。

田舎者の無知蒙昧の(いまも)若輩が大都会の片隅で木の葉のように風に舞い、何とか生命力を維持できたのは、感動するばねがかすかに田舎者の私の中にあったからではないかと、今にして想う。

だが、生活を犠牲にしてまで芸術や文化的な世界に耽溺したことはほとんどない。あかんと思ったら方向転換、もはやこれまで、と手放してきた。もっと打つなら、時折手放し、またつかむ。そのすれすれを、かろうじてバランスを取りながら、何とか生きてきたのである。

本を読むのであれ、音楽を聴くのであれ、芸術や文化に触れるのは、人間として、生活者としての豊かな感覚を失いたくはないという、どこかで焦りにも似た感覚が、いまだ老いゆきながらも私の中にあるからだろう。人生の旅のお供として、演劇芸術や文化は私には絶対的に必要不可欠なのである。

私の場合、生きてゆく(生活愛)ために本を読むのであり、本を読むために生きてゆくのではない。そのことをはき違えたことはない。生きてゆくために労働し、夫婦協働し、二人の娘を育て(娘たちのおかげで私は親になれた)その娘たちは家庭を持ち、私はふたたび、質素で落ち着いた老境時間を生きている。

そしてコロナ渦中の今あらためて想う。演劇芸術や文化、哲学思想に生活者としてわずかに触れる時間を手放さなかったからこそ、今があるのだということを。そして、今後のこれからの10年(もし生きていれば)、動いて生活する中で、若いころから最も影響を受けた演劇芸術、世阿弥の言うところの老いゆく花、のような生活者としての覚悟の花を、求めたいとの気持ちが(言葉になしえないおもい)湧いてきたのである。

可能な限り身体を動かし、老いバイトをしながら、あくまでも生活者としての視点を失わないように学び、日々を送りながら、(佐渡に流された世阿弥の老境を学びたいと強く思う)お金に振り回されない生活を送るための方図を、先人たちの英知、来し方から学びたいというのが、今後私がますます望むところなのである。だから、シェイクスピア遊声塾は閉鎖することにした。

来年はいよいよ古希、シェイクスピアはもちろん、国内外の世界の宝の主に古典作品、詩、エッセイ、短編小説、ジャンルは問わず、自分が感動し突き動かされた作品(新聞記事であれ何であれ日本語で書かれているいちぶん)を音読できる仲間と、何か始めたいのである。

上手下手ではなく、命の響き、感動するばねがあり、今を生きる問題意識があり、軽やかでしなやかな情熱のある方との出会いを、私の思いを共有できるような方がいれば巡り合いたいのである。

シェイクスピアの音読、若いころから今に至るも、シェイクスピアのコトバ(解釈の多義性、真実は多様に存在する)には、ずいぶん助けられた。地に足が付いた生活者として覚悟の範囲で綱渡りのように情熱を傾けられたのは、私が生活するためには酸素のように必要不可欠であったからである。家族や身近な大切な人たちに、心配や負担をかけてまで、自分のやりたい思いを、優先する愚を、まったく私は望まない。まったく逆に身近な人も伝わるような、生活必需品としての塾をこそ、やりたい。

コロナ渦中の暮らし、激変するパンデミックデジタル世界、四季の移り変わりの中、天の下での体動かし、普遍的な日本人が紡いできた言葉の音色、韻律、間を音読し学ぶ塾ができないかと、夢想するのである。

私はシェイクスピア作品の研究者でも、学者でも何でもない。縁があって好きになった作家がシェイクスピアであっただけである。若いころ演劇を学び、まして、専門家でもない。ただの庶民一人の生活者である。だが、感動力がわずかに備わっていたからこそ、シェイクスピア遊声塾を立ち上げることができたのだと思う。

 話は飛ぶ。まだ本にもなっていない翻訳したての、ロミオとジュリエットや、ハムレットを二十歳のころ、文学座の狭いアトリエで見た時の衝撃は、今も忘れられない。ハムレットの演出は出口典夫、ハムレットは江守徹。ロミオとジュリエットの演出は木村光一、ジュリエットは今は亡き太地喜和子。

話がそれた、その翻訳をしたのが後に文学座の養成所で講義を受けた小田島雄志の新訳であった。氏の優れた日本語による 翻訳、軽妙で猥雑な底辺社会の人間の底知れぬ魅力がなかったら私がこれほどまでに笑える、(高尚な教養としてのシェイクスピアのイメージをまったく覆した)シェイクスピア作品にめぐりあうことはなかっただろう。

シェイクスピア作品の翻訳日本語による音読を、60代に入り、思い付きで8年近く続けられたことの、どこか私にとっての幸運というしかない縁で、特にこの数年塾に参加してくださった方々にこの場をかりて心からの謝意を伝えたい。

そして、先のことはあまり考えず、これまでの歩みを生かしながらも、新しい地平へと歩を進めたく念うの である。道があるから行くのではなく、細い道をかき分けながら、足元をみつめつつ。命短し、こいせよ、遊べ。名称を考えたい。

 

2021-07-04

土取さんに奨められたほんの一部が手元に届き、ゆっくりと読み進もうと想う朝。

郡上八幡への旅から帰って、土取さんに奨められた御本を岡山市の図書館で探してもらった。何冊かはあるということだったので、取り寄せてもらい、その本が届いたとのお電話を昨日、いただいたのですぐに図書館に向かった。

賀川豊彦さんの本が3冊、(死線を超えて、キリスト教入門、一粒の麦)添田知道さんの教育者(全6巻の3巻だけがあった、一巻だけでもすごい)それと、絵本塾から出ている手島圭三郎全仕事という本(これまたすごい、凄すぎる)。

土取利行さんに奨められた本のあらかたは、岡山市の図書館では閲覧できない作品がほとんどではあったが、それでも一度に借りるには十分すぎるほどの本を借りることができた。

賀川豊彦さんと添田知道さんの本は古い本で、変色しており文字が小さく、読むのが難儀しそうだが、読めるうちに読まねばという殊勝な気持ちになっている。

他にも勧められた青空詩人の本など多数あるのだが、高い山に登るように、休みながらゆっくりと読んでゆきたい。本を読むには、その本と出遭うタイさいミングがあると痛感する。当たり前のことだが、読みたいと思わなければ、一ページたりとも読み進めない。

この一年以上のコロナ渦中生活と、はじめての手術、退院後の生活で、あきらかに読む本の傾向が変わってきたからこそ、土取さん推薦の本を素直に読みたくなったのである。

時間を決めて、一日に少しずつなめくじのように読み進むつもりである。賀川豊彦さんの【死線を超えて】は昨年秋、突然土取さんが我が家に来られた際教えてもらい、何とか探して上下巻読み終えたのだが、古い本ではなくPHPからあたらしく再版されていたので、再読する。このような純粋極まるキリスト教徒が存在するのかと驚かされた書物である。

話は変わるが、縁あって読んだ、中村哲先生、須賀敦子さん、佐藤優さんの御本、まったく内容は異なる世界だが、どういうわけか私が引かれる著者には、キリスト者が多い。常に神と対峙しながら生きておられる(た)。

私の中にも山岳信仰的な、故郷の山河への、絶えず帰依しながら回心し、目にに見えない存在に手を合わせる澄んだ気持ちは、老いと共に深まっている。人類、生物、我々はどこからやってきて どこへ向かうのかという まさにスフィンクスの永遠の謎。若い時は肉体のうずき、老いては精神のうずき、いずれにせよ生きていることは永久の疼きとの葛藤である。

特段の宗教者や哲学者、文学者ではなくても、普通の生活者の一人として、素直に先人たちが苦悩の果てに築いた文字や音楽、絵画芸術他で表し遺した、珠玉の未知の作品、いまだ私の知らない世界に出遭いたいのである。交信し、更新したいのである。

2021-07-03

未知の世界の水先案内人、土取利行さんと古希を目前、二人だけの語り合いを立光学舎で持て幸福感につつまれました。そして想う。

先週の土曜日、岐阜は郡上八幡の立光学舎に住む音楽家土取利行さんにお会いしてから、早 一週間が過ぎた。時はまさに川のように、一瞬たりとも止まらず流れゆき、まさに久しくとどまりたるためしなし、である。だがわずかでものおもいを籠めて打っておきたい。

1978年、(1977年夏から1978年末まで私はロンドンに住んでいた)ロンドンはヤングヴィックという小さな劇場で世界的な演出家ピーターブルックのユビュ王という作品が上演されているのを、タイムアウトというピアみたいな情報誌で知った。

ロンドン郊外の北に住んでいた私は(一人の未亡人が住む一軒家の一部屋に間借りしていた)地下鉄ノーザンラインのスタンモア駅からテムズ川を超えたところにある劇場へと、即向かった。シェイクスピアが生きていた時代のグローブ座に近い場所にヤングヴィック座はあった。

二十歳過ぎ、RSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)がワールドツアーで日本公演 に来た際、夏の夜の夢を演出していたのがピーターブルックであり、たまたま私はその舞台を日生劇場で観ていた。

舞台には白い衝立がコの字型に在るだけ。何か所かに隙間があり、そこから登場人物が出入りする。舞台上の両脇の高いところにドラムのセットが老いて在るほかにはセットらしきものは、ほかには何もない。まさに裸の舞台。その白一色の裸の舞台には明るい照明。最後までその証明は、夏の夜の恋人たちのドタバタに近い見せ場のシーンでも変わらない。開演を知らせるブザーもならない。いきなりに二台のドラムセットの音がさく裂し、芝居が始まる。若かった私はその演出に度胆を抜かれた。

シェイクスピアの上演史の中でも、いまだにひときわ語り継がれるほどにまさに画期的な演出の 舞台、ピーターブルックという名前が、私の中に刻まれていたのでヤングヴィック座に向かったのである。

驚いた。な、何と そのユビュ王の音楽を生でドラムセットを演奏していたのが、日本人土取利行さんであったからだ。怖いもの知らず、楽屋に土取利行さんを訪ね、その夜食事をご一緒したのが奇縁の始まり。氏の口から紡ぎだされる未知の世界の、とくにアフリカやインドや中近東の未知の国々の音楽文化、非西欧圏の国々の物語は、若い私を魅了した。わずか2歳年上でしかないのに、私などとは比較できないほどに数段落ち着いていて、今と違って当時は、本当に修行僧のように寡黙な印象であったが、内には言葉にならないマグマのような情熱がほとばしっていた。

 あれから40年以上にわたって、土取さんは本拠地をパリに移したピーターブルック国際劇団の音楽を担当しながら、パリと日本を往復しながら多岐にわたって独自の、一言ではくくれない人類にとっての音の旅探求を続ける稀人ななのである。

土取さんと出会って43年、一方的に勝手に、こちらの都合のいいように関係性を持続しながら、現在に至っている。

私の場合古希を目前にして振り返ると、何と多種多様な出会いの結果の、まるで見果てぬ夢の集積の上に今があるのだということを実感する。縁などという言葉ではは言い表せないし、使いたくもない。若いころの特権、背伸びできるときに背伸びして、ジャンプできるときにジャンプ、細い華奢な弱い頭と体で身の丈に余る行動をし、だが探し求めたからこそ、私は土取さんに出会えたのだと得心している。

俗物としての私は、土取さんの多岐にわたる活動の純粋さの一部しか、理解できていないことを、どこかで深く理解している。だが、何故か土取さんは私を引き付ける。私の中の何かと響き合い感応する。出逢ってから43年、今に至るも土取さんは私にとって未知の世界への水先案内人であることを、あらためて痛感した。外見は年相応だが話題は常にいま情熱を傾けていることに終始する。

先週、立光学舎で二日にわたって、二人だけの語り合い時間は、(同時代を呼吸できたことの幸運と喜び)私にとって至福のひとときとなった。出会ったころに比すれば随分と語り合える自分がいたし、ますますこれからは氏のお仕事をできる限り近くで、可能な限り感じたり、聞き届けたりしたいという気に私はなっている。

6月末の立光学舎、設立して34年、当時植えた樹木が大地に根付き、周りは水田、学舎のひろい窓ガラスからの長め、緑の鮮やかさにしばし私は心を奪われた。まさに氏と語り合いながら夢の世界を揺蕩っているのではないかとのおもいにいざなわれた。お告げのように思い立ってきてよかったとの思いが全身を満たした。

氏との語らいの中見は、今後の私のこれからの時間の中で、折々五十鈴川だよりを打ちながら、でてくると思う。とてもではないが書ききれないほどの中身の濃い時間が流れたことだけは、しっかりと打っておきたい。

お別れ、松田美緒さんとのコラボ、亡くなられた近藤等則さんとの新宿ピットインでの1973年の幻のコラボ他、4枚の貴重極まる自主レーベルで創ったCDをくださった。土取利行さんはこれからも、未知の世界の水先案内人である。

コロナ渦中、ひとり立光学舎で演奏し、歌い録音機材を買って、埋もれた歴史上の青空詩人の讃美歌なども録音している。(ユーチューブでもアップしているので聴いてみてください)私は生で聴くことができた。長くなった、本日はこれで。