ページ

2019-09-29

ラグビーワールドカップ、日本対アイルランド戦を見届け撃たれました、そして想う。

ラグビーワールドカップ、日本対アイルランド戦をリアルタイムでTV観戦した、妻と二人で。今朝の新聞の見出しとは異なるが、まさに歴史的勝利をこの目で体感見届けることができたことの幸運を、きちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。

前回のワールドカップでもたまたま、南アフリカに勝った試合を見てラグビーの素晴らしさに目覚めたにわかラグビーファンであることを、正直に告白しておく。

何しろ67歳の初老男なのであるし、脆弱な肉体で何とかこの年齢まで、どちらかといえば文武両道が理想であるとすれば、文のほうに傾いたバランスの悪い生き方をしてきたのだという認識がある私にとっては、ラグビーという肉体と魂(精神)が不即不離でぶつかり合うアウトドアスポーツ文化に遅まきながら、まさに目覚めたのである。

大方の予想を覆しての、見事というしかない大接戦の末の逆転の大勝利。日本代表は多国籍のまさに野武士軍団であった。狭義の愛国とか、ナショナリズムを超えての、しかも言葉で伝えるのは無理だが、日本的な和、まさに一つに結びつき合った意志の連携の美しいというしかない、各選手の人間力に私は理屈抜きに首を垂れ感動打たれた。

勝負はともかく、あのアイルランドからワントライでいいからあげてほしいという思いで、私は画面を凝視し続けた。後半の戦い方、つまびらかなルールがわからなくても、日本チームの意志の統一、エネルギーの持続力、勝つというまさに自分自身を信じている動きが、私にも伝わってきた。

気が付けば、67歳にして雄たけびを上げる自分がいた。いい歳ながら、雄たけびを上げる自分がいたのに、我ながら自分でも驚いた。

最後のパスの連携の的確な速さ、福岡選手の執念の動き見事なトライを初老男の眼底に焼き付けた。この一戦は、初老男に限りない今後を生きる勇気を与える。他者にどう思われようと唯一無二の自分自身を信じ、仲間を信じることの崇高さである。そこにはこざかしい言葉や理屈を超えた何かが存在する。

 グレタさんの国連演説の要旨 
これ以上私の言葉で、(五十鈴川だよりで)野暮なことはつづりたくないが、何かを成し遂げたあの個性的というしかない、ヘヤースタイル、風貌、文化であるタトゥー、野武士荒武者軍団の面構えのカッコよさに、細い体の初老男はミーハーとなってしまったのである。

もうすでにチケットは売り切れているにしても、スタンドでいつの日にか観戦したいという夢が湧いてきた。夏の甲子園でも体感したが、まさに現場で観戦できるという幸運に勝るものはないが、そうはできない現実をほとんどの人間が生きている。

人間に神様から与えられている最大の宝は、理屈や性差や国籍や貧富やありとあらゆるバリアーの壁を超えて感動する器であるということを、あらためて原点感覚を思い知らされた。

今朝の新聞、キャプテンのリーチ・マイケル選手の言葉が素晴らしい。30分喜んだら次の試合の準備にに向かうという、今後の日本代表の試合から目が離せなくなってきた、私である。

2019-09-25

16歳のスウェーデンの女子高校生の叫び声の映像をみておもう。

16歳のスウェーデンの女子高校生が地球温暖化対策に対して、先進国のあまりに危機感のない取り組みに関して、国連で涙ながらに激しく訴えている。是非は置くとして行動力には驚くべきものがある。

この温暖化による(といわれている)気候変動が我々文明社会が築き上げた、主に産業革命以降の、便利で快適な石炭や石油に頼った生活の上に排出された二酸化炭素によるものであるのあれば、それは心ある、人類のすべてが、私を含めた毎日車などを運転している一人一人が考えないといけない、大問題である。(とおもう)持続可能な人類の行く末の大テーマを。
1991年に買った本岡山に移住する一年前

なぜこのような大問題を、朝からわたくしごときの初老男のブログで書いているのかは、自分でもよくはわからない。SNSをはじめとするヴァーチャルサイトで、国家間を超えた若者たちの間接的ではあるが、温暖化によってもたらさられるで、あろう気候変動に関しての、未来生活に対する連帯のニュース映像に私は驚いている。

若者たちの危機感は初老男の想像を超えている。初老男にもその声は届く。

アメリカの銃の規制に関しての若者たちのデモ、香港の民主化運動の先頭に立つ若者たち(デモはしても暴力はいけない)、プラスチックの問題の関しても若者たちが多様な声をあげている。私もそうだったと過去形で書かなければならないのは、少々の寂しさが漂うが、正論をことさらにのべることは五十鈴川だよりでは慎み控える。事はもっと複雑でにっちもさっちもいかない諸問題が複雑面妖に絡まっているのだと思うからである。でも考えないとまずいと、私でさえ思う。一口に気候変動。

太陽が昇り、日中半日近くをアウトドアで肉体労働時間を過ごすと、確かにこの10年近くの夏の暑さは半端ではない。まさに自分自身の問題として考えざるを得ないのである。主に都市部の低いところに住む全世界のかなりの人間がクーラーに頼る暮らしから逃れられない。

世界的にあちらこちらで、台風やハリケーンによる水害停電、家屋が水に浸かり、倒壊被害が続出する。アマゾンの以前では考えられない大火災など、問題山積のグローバル化人類社会。

ではどうするか。無関心がやはり一番まずいと思う。あらゆる一見困難解決な問題に関して、ほとんど社会的な役割を終えたとはいえ、社会の中で生かされているものには、生きている間は、なにがしかの未来人に対しての責任があると思う。

だからたぶん朝からこのようなことを五十鈴川だよりでつづるのは、16歳の異国の女子高校生の叫び声に関して、初老男の無関心ではないことのささやかな表明である。

2019-09-23

10月からシェイクスピア遊声塾の塾生が7人になります、そして想う。

台風の余波も我が家の近所は大したこともなく、雨も降っていない。窓からは厚い雲がゆっくりと移動しているのがのぞめる。若干風の音がするが穏やかな夜明け前の朝である。

さて、自分の今の暮らしの自由時間の中での、やることの優先順位の中、6月から道場に通って的前に立って弓の稽古を辞めたことを、五十鈴川だよりには書いている。

が、娘たちが使っていて今は私が使っている2階の部屋は広くて、立って弓をひくことができる。そこにはレイさんからもらった巻き藁が設えられている。

暑い夏は無理して巻き藁をすることをほとんど控えていたが、秋の到来と共に過剰な負担を体にかけない範囲で、少しづつ再開している。なぜ道場に通っての稽古を辞めたのかを言葉で説明することは不可能なので、書くことは控える。

ただいえることは、道場への往復を含めた稽古時間が空いたので、五十鈴川だよりはもちろん、シェイクスピア遊声塾に関して、私がやらねばならないことに以前にもまして、よりじっくりと取り組めるようになった。

遊声塾をはじめて7年目、10月からは塾生が7人に増える。ただシェイクスピア作品が好きな私の塾に信頼して参加してくださっている塾生との、これからの稽古時間を最も大切にしたいとの思いが、より強くなってきている。

もう何度も書いているから簡略に記すが、あの長い膨大な台詞を胎から音読するのは、至難なのである。それでも、月謝を払ってまで参加してくださっている情熱のある塾生に対して私にできることは、誠実にその情熱に対応することである。

幸い初期のころから参加している塾生と、この数年の間に参加された塾生との関係性が実にうまく溶け込んで、それぞれの持っている個性が刺激し合って、ロミオとジュリエットに続いて取り組んでいる真夏の夜の夢の稽古が、7年目にしてようやくいい感じで実を結びつつある。

それはやはり、情熱と情熱が真摯にぶつかり合う無心の稽古から生まれる何かなのだろう。体と声には各個人の現在までの人生、歴史が、体験経験(怒り・喜び・悲しみ・痛み・苦しみなどなど)がすべてつまっていて、各塾生の個人史の上に刻まれた人柄、教養、知性、感性、センスが渾然一体、唯一無二の声となり、シェイクスピア作品の登場人物と格闘することで、その人ならではの意外なジュリエットになったり、タイテーニアになったり、ボトムになったりの予期せぬ化学変化が起きるのである。
日本で最初にシェイクスピア作品を翻訳された坪内逍遥大先生の本

予期しないこと、予期しない声が7人(私を入れれば8人)での稽古の間に最近起き始めたのである。それが私にとって最も面白い稽古である。人間の聲は相手との関係性、状況の変化、やり取りで今生まれた声音となる。変化しない声はつまらない。実人生はともかくフィクションの中では自由にはばたき変化したいものである。

真夏の夜の夢の恋人たちは、お芝居ならではの魔法の花の汁が原因で、誤解が誤解を生み果てしなくもつれ、身体の奥底に眠っていた深層心理が闇の世界であらわになる。これこそがデフォルメされた、奇想天外なシェイクスピア作品の醍醐味である。それを表現したいと挑戦する勇気ある塾生に今私は恵まれていることを想うのである。

だからなのである。この塾生たちとの稽古時間を先ずは第一有意義に過ごすべく、ない頭で知恵を絞らなくてはと考えるのである。そのためには私自身が良きコンディションをキープしないとまずいのである。

これ以上野暮なことを書くことは控えるが、お相撲でいえばやがては引退がやってくるる、が今しばらくこの塾生の方々と共に、土俵上での稽古ができる幸運を味わいたいと願うのである。

2019-09-22

養老孟司先生のお話を聴きました、そして想う。

天候には逆らえず、帰郷は断念した。また近いうちに予定をこしらえて、故郷詣での一時をと考えることにした。したがって今日から数日完全オフを過ごすことになったので、これはこれで有難く受け止めることにする。

さて、昨日午後和気町の公的な施設で、岡山県自然保護センター主催の講演会があり、お話を養老孟司先生がされるという知らせを、Nさんがラインで事前に知らせてくださったおかげで、妻と共に聴くことができた。

演題は里山についてであったが、直立歩行の人間という存在の特質、子育て、教育、エネルギー、をはじめ現代社会が否応なく抱え込んでいる多岐にわたる問題についてお話が約一時間半近く展開された。

一見出口が見えないかのような金縛り閉塞感に、いかに知恵を絞ってその解決の糸口を見つければいいかについての、いわばヒントのような場所が日本の里山にはあるのではないか、というお話(であったと思う)。

該博で、ユーモアたっぷりの養老孟司先生のお話を岡山市内ではなく、家から車でさほど時間のかからない距離にある、公的ホールで直接聴くことができるとは思いもしなかった。(この場を借りてNさんに感謝)

先生は1937年のお生まれだから、齢80歳を過ぎておられるはずであるが、ずっと立ったままよどみなくお話をされたそのことに、どことなく虫取りに出掛けられる服装、お姿に、動きに、照れる様子に、どこか毒のある含み笑い、ユーモアに感動してしまった、ただものではない。

いきなり1000万年前大陸がアジアとつながっていたころのお話から、岡山には自分の関心のある虫がいないからあまりきていないというお話、450人くらいの聴衆は座ったままであるのに、先生はつっ立ったまま。

西洋人が発明した椅子がいかに人間の腰に負担を抱えるか、(あげく腰痛は現代人が抱える大問題になっている)先生は小学校に上がるまで畳の上での生活で、椅子に座ったことがなかったので座り方がわからなかったお話とか。先生の御本をこのところ立て続ける読んでいる私でも初めて聴くお話が、ジャズのように即興的に繰り出されるので、ぐいぐい引き込まれた。

有体に言えば、当たり前に想ったり感じたりすることが、いかに当たり前ではないかという気づきについてのお話など、蒙を突く自在な養老哲学がいかんなく遺言のように発揮される。いかに現代人が自然と離れ自らがが望んで作った文明、人工都市空間の中で自然と切り離され、そもそもが自然である心と体がいかに歪んでしまったかを。

はっきりと書いておく。本当に大切ないまの我々の生活そのものを根底から変える、それもできる限り愉しく変えてゆくためにはの、生活改善努力の目標、自然と人工物との境界、人間存在が気持ちよく【生活できる場所】を里山的空間で見つけられるのではと、提案なさっておられるのだ。(と受けとめた)
私が初めて手にした養老孟司先生の御本(今読むと沁みる)

先生は人間を懐疑的にとらえておられるが、それを何とかバカの壁を壊したい、と里山、日本の森の再生事業に、子育て教育問題、子供たちの居場所づくりにと、老体を引きずりながら取り組んでおられる。

先生は虫の視点から、人間存在の行く末に警鐘を鳴らしながら、懐疑的ながらもあきらめず、身をもって子供たちと虫取りをしながら、未来の種である子供たちを少数であれ、面と向かって育てていらっしゃる。真の教育者、得難いまさに師、先生である。先生は語っている、一番面白いのは自分を育てること、教えることは学ぶことだと。日本の大問題という御本の中で語っておられる。

先生の御本を読むと、これからの人生時間を想うとき、わが故郷の里山、五十鈴川のほとりの里山に想いが及ぶのである。晩年の行く末、初老の私だが養老先生の年齢までは幾分時間がある。ささやかに身の丈に合う何かをせずにはいられない。だから私は五十鈴川のほとりに立ちたいのである。自分にとって最も気持ちのいい場所で思考したいのである。




2019-09-21

誰が故郷を想わざる、ジョージアならぬ、五十鈴川・オン・マイ・マインド。

日曜日から生れ落ちた地へ帰ろうと思っていたが、台風の風雨の影響で日豊線や新幹線のダイヤが乱れるかもわからないので、延期しようかどうか迷っている。

この老いゆくにしたがっての望郷の念は、いったいどこから来るのであろうか。いろんな分析が可能かもしれないが、私はそういうことにはあまり興味がない。私の生まれた生家は今ないし、門川の街の風景も日本のほとんどの地方都市と同じように、人口が高齢化し過疎化が進み、さびれている。

がしかし、姉や兄が元気に健在で生活しお墓を守っている。今年の冬はご先祖の地でしっかりと地に足をつけて生活して居る私より年上の素敵なご夫婦とも巡り合うことができ、前回の帰省では、ご先祖の地で炭焼き仙人となった小学校の同級生とも奇蹟的な再会が起きるなど、元気なうちに会いたい、話をしておきたいという方がいる。しかも二組のご夫婦とも姓が同じ、深い縁を感じる。

そしてもう一人会いたい方ができた。この冬の帰省で巡り合えた、兄の家から歩いてゆけるところにある幸節館という弓の道場の主であるI先生との出会いである。御年82歳、ご自分の作った道場で奥様共々今も弓をひかれている。生家のすぐそばに在る幸節館からは、我が家のお墓の場所が望める。素晴らしい場所、生家が引っ越ししてきたかのような。

五十鈴川だよりにきちんと書いて、写真もアップしている。岡山での弓の時間は、意が進まなくなってしまったが、帰省の度にこの幸節館の先生とは、元気な間は必ずお会いしたいと思うほどに、この道場そのものといってもいい先生のたたずまいに撃たれたのである。

言葉や理屈では何とでも書ける。会えるうちに会いたい人には会いたい、ただそれだけである。気持ちの体がゆきたい、会いたい、帰りたいというのだからそれに従うだけである。
小学校時代の同級生が仙人になり、焼いた見事な備長炭に感心する花

大昔、ヒトがまだ文字や言葉を持ち合わせていなかった時代、文字を書けなかった圧倒的多数の一般庶民は、どのようにして気持ちを表して生きていたのであろうかと、ようやくにして、歴史年表にない無名の人々のご先祖の地での人々の生活、歴史に想いを巡らすようになってきた私である。

オーバーではなく、これまでの自分の及ばなかった、感知しえなかった、もっと書けば今を生きるにいそがしく、遠ざけていた世界のよしなしごとに、どういうわけか関心が湧いてきたのである。

五十鈴川という川の名の由来をはじめ、門川町、私の原点感覚を育んだ故郷のことを、私より年上の方々のお話をもっともっと聞きたくなってきたし、知りたくなってきたのである。

落ち着いて書いていると、思考の整理ができる。絶対矛盾、感情を言葉でもどかしくも整理し、揺れる思いをつづる。

2019-09-20

秋の到来、今週末から数日故郷に帰還することにしました、そして想う。

灯火親しむ秋の到来を、本当に待ち望んだ秋がやってきた。あの暑い夏をのりきった、午前中肉体労働者の私にとって、この朝の涼しき時間帯はオーバーではなく天国のように思える、さわやかさである。

タイムカードも何もない、自己の判断で4時間緩やかに途中適度にお休みしながら、身体がオーバーヒートしないように、細心の注意をはらいながら動く。この夏も何日か堪えた日があったが、加減しながら乗り切った。(幸い信頼されていて皆さん暖かい)

都会に住む現代人は、科学的なデータとかに沿ってトレーニングをするのだろうが、昔人、私の場合はほとんど非科学的自己流(これはあらゆることに通じているなあ)アルバイトをしながら、今日の体動かし、といった按配で体調をはかっている。

体動かしができる間は、どこかで遊声塾が続けられるといった気持ちが連動、働いている。丹田呼吸をしながらの体動かし、秋の青空の下での早朝の体動かし、お休み時間は誰もいないところで天空に向かって諳んじている台詞を放ったりして一人遊び。
五十鈴川のほとりでの思索時間が必要です。

こんな私を人が見たら、気の触れた初老男と思われるだろう。だがもういいのである。社会的な役割はほとんど終えたのであるから、人様に迷惑をかけない範囲で、できるだけお金に依存せず、自分の体と遊ぶのである。

ここまで書いて、ふと小学校2年生か3年生のころ兄貴たちが、深いところをすいすい泳ぐのをしり目に、私は背の立つ浅いところで、見よう見まねを繰り返し、何とか独学で泳ぎを覚えた記憶が蘇る。五十鈴川で初めて泳ぎを覚えたあの日の喜びが。

まだ学校にプールなどなかった時代、自力と他力で私は水に浮かぶ我流泳ぎを身に着けたのである。そのことがいまだにどこかで尾を引いている自己認識がある。あのころのなにか原点が、いまだに自分の中に(ある種天邪鬼的なまでに)あるのだ。

曲がりくねった埃のたつ戦後の未舗装の道、夏休み歩いて片道2キロ、泳ぎたくて晴れた日は毎日のように、小学校5年生まで五十鈴川に向かった。やがて泳ぎだけではなくエビを採ったり魚を取ったりすることも自然に覚えた。じもとのこども、男女全員が蝉しぐれのなか水と戯れ泳いでいた。帰り道に飲んだしみわたる湧き水のおいしさ、私には黄金の夏の宝の記憶というしかない。

あのころ鮎をはじめ多種類の川魚が五十鈴川にはわんさかいた(いまもかろうじているのが救いである)おもちゃなどなくとも、ヒトには神が想像力という遊べる力を与えてくださっている。人工的なものがほとんどなかったあの時代に私は育った。

思う、あらゆる森羅万象存在に有形無形影響を受けながら、自然と宇宙と自分が不即不離であること水の惑星に存在している有難さをおのずと実感する。その過程で他者と出合い自分を発見し成長する。

しかるに現代は?もうこれ以上野暮な初老男のつぶやきは止しとする。今週末から、お天気が悪そうだが数日お墓参りがてら五十鈴川に帰還する。

2019-09-16

池内紀氏のご冥福を祈る。

まだ満月が西の空に浮かんでいる。昨日午後八時過ぎ一人外に出てお月見をし、今朝も眺めいって穏やかな心持の、夜明け前の五十鈴川だより、花がやってきて私の膝の上にいる。

さて、ドイツ文学者でエッセイストであり、M新聞の書評家であった池内紀さんが先月末78歳であっけなく他界された。最近まで氏の書かれた書評を読んだ記憶があるので、お亡くなりになられるまでお仕事をされていたのだ、と知る。

旅や、哲学者カントについての伝記的エッセイしか読んだことはないのだが、権威的な事を嫌い、旅を愛し、該博な知識と教養、ユーモアがわかりやすい言葉で書かれていて、折に触れてこれからの老い楽時間を照らす、私にとって大事な作家のおひとりであった。

わたくしごときが、氏について語ることはほとんど何もないのだが、一言惜しい方がまた一人お亡くなりになられたことを、一行でもいいから、五十鈴川だよりに綴っておきたい。いつの日にか読みたいと思って買っておいた、氏が翻訳されたゲーテのファウストがある。
必ずファウストを読みます

心血を注いで身を削ってお仕事をされたかたなのだろう。これまた私の好きな池澤夏樹さんが追悼の一文を寄せておられる。【生きる達人仙界へ】という見出しである。そうか池澤さんが、達人と思慕するほどの生き方、お仕事をされた方なのであることをあらためて知らされた。

ともあれ、M新聞の書評を担う方々によって、私がこの十数年どれほど無知蒙昧な自分を今も思い知らされているか、知的な世界の深淵さを知らされ続けているか、つまり真の意味においての、知識人のすごさを垣間見ていることか。

老いると共に、あと何回中秋の名月を愛でることができるのか、あと何冊本が読めるのかとか、あと何回五十鈴川のある故郷に帰れるのかとか、いつまで声遊塾のレッスンができるのかとか、あらゆるイフ、とかをつい考える。寿命、人生はまさにある日突然、粛然と閉じるのである。

そのようなことを口にすると、縁起でもないとか、人生100年時代、これからこれからなどというご時世だが、私はまったくそういった時代の御託宣には関心がない。命の終わりを厳粛に受け止める覚悟をこそ養いたい。

口幅ったことはまったく書く気がない、ただ思うのは私のこれからの時間は、もうすでに何回も書いているが、身体は現世を生きてはいても、こころは限りなく過去の時間を反芻しながら生きてゆくということに尽きる。

人としての現世的な役割をほとんど終えた今。今後は現世を生きながら、すぐれたお仕事をされた言葉の宝を、【古今東西の古典の膨大な海の一滴を味わい】老いの身に注ぎながら生きられたら、と。池内紀氏の御冥福を祈る。




2019-09-15

明日の市民手作り映画撮影を前にして想う、五十鈴川だより。

5時前には目が覚め、起きて新聞を取りに行った時には見事なほぼ満月の月が、西の空にぽっかりとうかんでいた。おそらく今日の夕方には見事な中秋の月が再び望めることを願う朝である。

ところで、今週と来週は3連休が続くが、遠出しようとは思っていない。真夏に甲子園はじめ、小さな旅を繰り返したのでその反動が出たのではなく、静かな週末時間を過ごしているのには、ちょっとしたわけがある。

それは、明日と、今月末と2回ほど市民手作り映画の撮影があるからである。かって長島愛生園の中にあったという高校の教頭先生役で出演している。出番は少ないものの、重要な役であるので、静かに過ごしているのである。

学生の方々はじめ私も含めすべて市民手作りの映画である。私の場合平日は半日働いているので、出番の日の撮影は休日にしてくださっているのである。だから、明日に供えて台詞は少ないのだが、できる限りK教頭先生役の抱える苦悩に寄り添いたいという心理がどこかに働くのである。
この方の本初めて読んでいます

その日の撮影の間は、どこかで日常生活を断ち切り、フィクションの中での架空の人物になりきるための変身時間が、私の場合はどうしても必要である。

やさしさと、頑固なまでの非情さが同居しているK教頭先生役の、私なりのモデルは私の父の在りし日の姿である。日本統治下の北朝鮮の小学校で両親は教師をしていたが、敗戦で幼い3歳の長女と生後半年の長男と共に、親子4人命からがら引き上げてきて、再び教師として戦後を生き延びた父の在りし日の面影を、かってに役作りの参考にしている。

長くなるので端折るが、ご縁がご縁を呼び、このような形でよもやまさかの先生役での映画出演。亡き父の言動、姿から、ようやく最近年齢と共に父の気持ちがわかってきたことを、わずかでも表現できればと思うのである。

私の中では元気なころの父の声色が、いまだ蘇る。私の脳裡の中、両親は在りし日の姿と共に生きているのである。今回たまたま巡り合えた先生役、亡き父の面影をほんのわずかでも投影出来たらと、想うのである。

2019-09-14

鳥取在住、ロミオとジュリエットの発表会に来られたM氏から見事な梨が届きました、そして想う。

ようやくにしてこの数日、朝夕すっかり涼しくしのぎやすくなり、肉体労働者としては有難い季節の到来である。中秋の名月といえば実りの秋、お月見にはいろいろな作物を昔はお供えしたものだが、その風習も名残り意識はあっても時代と共に消えてゆきそうな気配、歳を重ね余裕のできたいま、ささやかに復活したいと思っている。

そんなさなか、鳥取在住、今年の遊声塾ロミオとジュリエットの発表会に来られ、久方ぶりのうれしい再会を果たしたM氏から完熟の一品、見事な梨が送られてきた。

日本男児、(私は時代にそぐわない古い男です)快男児、熱血漢、はたまたナイスガイ、このような表現が当てはまる日本人に、本当に最近とんとお目にかからなくなりました。

だがM氏は違う、わざわざ鳥取から、私が定年退職後に始めた塾の発表会に足を運ぶ熱き情熱、好奇心をいまだ失っていない、いい意味での違いが判る現代においての絶滅危惧種的、同時代を着てきた感覚を共有できる(仕事の分野は違うが)昭和男なのである。

友からの秋の実りに癒されて・心満たされ月に供える
6月22日発表会の後の会場で、氏は臆面もなく私をハグした。

このような普通日本の男がやらないようなことを自然にやれる稀なキャラの、余人をもって代えがたいひとかどの人物なのである。

後日ゆっくりとしたためられ送られてきた、表裏に記されたアンケートにも本当に感動した。(五十鈴川だよりにアップした)紋切型のアンケートがほとんどの現代だが(ごめんなさい)心に響いた様子が、手書き文字に現れていて私の胸を撃ったのである。

多分、わずかではあれこのようなアンケートに巡り合うために、塾生共々どなたかの胸に届くようなシェイクスピア作品の登場人物の声を表現するために、いわば修行(この言葉も古いですね)のような稽古を重ねているのである。一朝一夕に声はならず、(まして人間は)目利き、見巧者、長い目で見守る良き観客が年々少なくなってゆく時代、氏のような方の存在ははなはだもって貴重である。

永久保存のアンケートを書いてくださった氏から届いた、日本の秋の鳥取特産の一品。私は大胆な性格の表の裏に繊細な思いやりのセンスが、渾然一体となっている氏の心遣いにいたく感動したのである。

取り急ぎ、ラインでお礼を伝えたが、この場を借りて氏への感謝を五十鈴川だよりの中にきちんと書いておきたい。氏は来年も夏の夜の夢の発表会を楽しみにしているので、日にちがわかったら知らせてほしいとあった。氏とは君子の交流を続けたい。

2019-09-09

新聞で坪内稔典さんの記事を見つけ、読み想う。

自分の裁量でいちにち4時間働けばいいので、早く出かけて働き、戻ってシャワーを浴びお昼前、ちょっと時間があるので五十鈴川だよりタイム。

定年退職してから、いろいろと緩やかに老いゆきながら、以前より新聞を読むようになったことは、たびたび書いているような気がするが、今朝も早く目が覚めたので二日分の新聞を夜明け前の一時間、バイトに出掛ける前に読んだ。

すると一人の名前だけは存じ上げている、俳人の坪内稔典さんの記事が目に留まった。1985年から主宰されていた俳句集団「船団の会」を解散するという記事、30年以上にわたって続けてこられた会を散在するという。じっくり読ませていただいた。

おそらく坪内さんは、きっと私よりも年長だと思われるが、その意気軒高さには大いに刺激を受ける。このような記事に目がゆくというのは、きっとどこかに俳句とか歌を詠むことに潜在的に関心があるからではないかとおもう。

声が出なくなったら、弓が引けなくなったら、あるいは今からでも同時に、いくらへぼであってもいいから精神がどこか動く間は、俳句でもひねり出せたら愉しいではないかと思うのである。

終わるということは、何かが変わり、次が始まるということである。稔典さんは語る、終活ではなく、終活に対する抵抗であると。然りである。わたくしごとき凡夫でさえいまだ初老男の心は揺れる、揺れる間は何かを探し見つける、つまりは生きている実感的な喜びを見つけたい。

まして、経験したことがない、老いの行く先のこれからのかぼそき途、若い時には想像だにできない、死を身近に感じるからこそ、湧いてくる喜びのようなものが見つけられないとも限らない。未知の領域、わからないではないか。スリリングであると思えるか思えないか。本人の感覚、感性次第である。
面白いということは千差万別であるが俳句は老いの身には面白い

バイトに出掛ける前、今日の新聞を起きたての新鮮な頭でじっくり読むと、想像力が刺激を受け身体が動き始める。同世代、もしくは私よりご年配の方々の、勇気ある言葉に出会うと元気になる。

はじめに言葉ありき、毒にも薬にもなる言葉ではあるが、私のような弱き器は、言葉なくしてはとても生きてゆけそうもない。

それにしても、心眼というが、良き言葉に出会うためには、とにもかくにもすっきりした頭体の、午前中でないと難しい。

2019-09-08

無名の平凡な人生の奥深さを想う夏の終わり。

日の出が遅くなってきた。虫の音が聞こえる。昨日夕方見えた半月は今はどのあたりに見えるかしら、二階の窓からの視界からは見えない。日中はまだまだ日差しが厳しい。涼しい朝くらいしか、五十鈴川だよりを書く気にならない。

声を出すための肉体労働トレーニングバイトを、喜びの糧、礎としたい私としては、今しばらく辛抱をしながら平日を乗り切り、日中も涼しくなるのを待つほかはない。

とは言いながら、この夏は夕方図書館によく行き本を随分と読んだ。本を読むことに集中し、いろんな刺激を受けながら暑さをしのいできた夏なのである。私の場合は体を動かす動的時間と、文章を綴ったり、筆で文字を書いたり、本を読んだりの静的時間の往還こそが、今を生きる循環ライフなのである。

おそらく、これからの時間の8割はこのような形での暮らしが、元気な間は推移してゆくことを願っている。元気に動ける時間をこそ、いよいよもってこれからは大事にしなければと、おもう。だからこれからは、人から見たらますます頑固な暮らしへとシフトしてゆくような、ある意味でまるで私の父が囲碁ばっかり打って晩年を過ごしたような、塩梅になってゆくのではと考える。やはり血は争えないという、自覚が深まる。

ところで、レイさんからいただいた五十鈴川だより、読み返すことがなく続いてきたのだが、ちょっぴりと読み返してみたのだが、一言でいえば、お恥ずかしき思い付き一文を書いてきて、旅の恥は書捨てではないが、よかった(まだ途中ですが)という思いである。

かってに先生だと思っている、思考の柔軟さに驚嘆する
書き続けなかったら、きっと今の自分はオーバーではなく存在していない、とさえ思えたほどである。

自己正当化であれ、自己満足であれ、自己慰撫であれ、理屈はどうでもいい、何であれ今を生きる自己対話のような思い付き戯言を、継続持続してきたからこそ、あきらめつつも、あきらめなかったからこそ、今日もまた日が昇り、何かを綴れるということの、子供じみた初老の喜びがある。

声を出すことも含め、愚直に何事も継続持続することの大事をことのほか最近実感する。人間は日々同じことを繰り返すことの中で人生時間の大半を、私も含めほとんどの人は過ごして、一生を終えるのだと思う。若いころはそのことの意味、大事さがちっとも理解できなかった、朴念仁の至らない私であったが、ゆるやかに緩やかに、その平凡さの、何という裏返しの非凡さが沁みるように、老いるにしたがってわかり始めたのである。

だから、この先老いること、老いを見つめてゆく五十鈴川だよりにますますシフトしてゆくだろう。私よりもずっと高齢で高名な達人的な方々ばかりではなく、私の母のような、私の両親のような、無名でしっかりと生きた人たちにあやかりながら、これからの時間を過ごしたく思う、五十鈴川だよりである。



2019-09-07

次女の結婚式の日の前日レイさんからこれまでの人生で最もうれしいプレゼントをいただきました、そして想う。

トマムから帰ってきて六日、ようやく時差ボケが無くなり、普段の生活を取り戻している。4日以上五十鈴川だよりを書かないのは、旅でもしない限り珍しいのだが、やはりどこかにうれしさのあまりや、年甲斐もなく興奮したりの連続で、疲れが蓄積していたのであろう。

だがしかし、ブログは書かなかったもののアルバイトも塾もきちんと(その他のことも)こなして迎えた土曜日なので、ああ今日は五十鈴川だよりが書ける朝なのだと思うとただただ、ささやかに嬉しい。

人間は水泳しながら、ピアノの稽古はできないだ、24時間は普遍、ならば何かを削るしかない。五十鈴川だよりを書くことを控え、睡眠を多くとることにしていたのである。

とにかく、アウトドア仕事で体を動かし、細い体に栄養を入れ、身も心も休ませる。そして空いた時間は、琴線に触れる文字を書いたり、本を読んだりして過ごして、一回であれ数回であれ弓の素引きをする。そして時間を気にせず書きたくなったら五十鈴川だよりを書く。

無理をしないで、(でもまだどこかに外見はともかく、自分の中に青い自分がかすかに残っていて、忘れて無理をしてしまう)と初老の体に言い聞かせながら、ゆるゆると流れ下る五十鈴川だよりなのである。

話は変わる。トマムで長女の旦那さんレイ君から、7カ月遅れたが、私の67歳のお誕生日プレゼントをいただいた。それは本になった五十鈴川だよりである。Volume1平成23年3月~平成25年間3月までの2年間、私が書いた 五十鈴川だより。Edited and printed with love,foryour67歳 birthday  Your Machi,Moe, Noah,and Rayとあった。

A4サイズでズシリと重い(これからも可能な限り書きます)
これまで生きてきた中で、最もうれしいプレゼント、ヴァーチャル空間から抜け出てそれが今手元にある。よもやまさかこのような形で手渡されるとは、それも新しい家族に加わる次女の結婚式で。きっとほとんどの煩雑な雑事を義理の息子のレイさんがやってくれたのに違いない。

この五十鈴川だよりを立ち上げてくれたのもレイさん。現代は家族が漂流しているのではと思えるほど、どこか家族が受難の様相を一見呈しているかのように思える世相のさなか、このような相手を思いやる手間暇惜しまない手作りの一品をいただくと、感動する。ほかに言葉がない。そして、家族とは?と初老男は考えるのである。家族と出会えた運命に感謝するのである。

これ以上つまびらかには書かないが、このビッグなプレゼントは、とにもかくにも意志の弱い私が何はともあれ書き続けてきたことに対するお祝いの品であると心から長女家族と次女に対しての感謝を、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

このプレゼントはこれからいつも私の机の上に在り、これから先の私の行く末の羅針盤になってくれそうな無言の光を放つ宝である。


2019-09-02

トマムの大地で、次女の結婚式が行われ、感動しました。

ダスク,西大寺の暮れのいっとき五十鈴川だよりタイムである。北海道はトマムで行われた次女の婚礼の儀式に参加し、無事ではなかったものの、花嫁の父の役割を何とか終え、式の一部始終を見届け、昨夜10時近く我が家に帰ってきた。

これを書いている今も、どこかまだ時差ボケ感覚をぬぐえない私だが、何はともあれ身体が新鮮なうちに、わずかでも何かをつづりたい私である。北海道はやはり生態系がことのほか、岡山や九州とは異なるのであるということが、実によく今回の挙式で分かった。

長女のドレスデンの挙式、次女の今回のトマムでの挙式、共通して私が感じたのは、日本からは遠く離れた場所での、挙式であったのがすごく共通しているということを、書きながら今思うのである。

親ばかになるので、詳細は割愛するが、長女の挙式次女の挙式本当に素晴らしい時間を、私は堪能した、することができた。そのことだけは、きちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。

男と、女性が出会いお互い惹かれ合い、家族を持ちたいと願い、生涯を時間を共にする覚悟を決める結婚式という厳かな儀式に親として参加することができて、感謝の気持ちしか今は言葉では言い表わせない。
翌朝3人で雲海を観にゆく、二人の前途を祈るのみ











新郎の企画立案、で思いもかけない家族のみでの結婚式、披露宴本当に感動した。トマムという場所はいろんな意味で、別世界であったがいよいよこれからは、現実世界の中で生き抜いてゆくための、束の間の英気を養うためには最高の場所であったということを、どこかで感じている。

新郎が、選んだ水の教会での挙式、場所が最高によかった。そのことだけでトマムまで足を運んで、滞りなく儀式が、無事に終わったことを、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

そして、親族だけ、家族だけの少人数での結婚式が、かくも内容が濃いものになるということに驚いている。両家本質的に初めて出会い、いきなり密度の濃い時間を結婚式という儀式の中で過ごすことができたのは、新郎の企画力である。

赤ちゃんからおばあちゃんまでが和気藹々と参加できた、後年きっと思い出に花が咲くであろう儀式となった。婚礼の儀式と披露宴は、トマムの大地と闇の中でまさに祝祭化し、光、雲の流れ、水、雨、森の木漏れ日、樹木、森羅万象がその儀式時間二人を寿いだ、あれは夢であったのではないかとさえ思えるほどである。

86歳の母が、ことのほか喜んだこともきちんと書いておきたい。