いよいよもって限りないシンプルライフに入ろうとしているのだという、穏やかな自覚がある。いい意味での老いる自覚を深めている秋である。でもどこかいまだ燃える秋の到来でもある。
さて、郡上八幡音楽祭は、あらためて 素晴らしかった(ゆけなかったら悔いが残った)と、我が極私的五十鈴川だよりに繰り返し書かずにはいられない。
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私は1978年、26歳の時ロンドンのヤングヴック座で、あこがれのピーターブルックの芝居を観たことを契機として、私は土取利行さんという、稀有な音楽家と出遭った。
依頼、あれから40年の歳月が流れている。この稀有な音楽家の歩みの全体像は、いつの日にか、どこかの誰かが、きっと示してくれるであろうことを私は確信している。
人類の遺産というしかない、未知の世界の国々の音の探究者として、(また日本の音の探究者として)日本人の音楽家としてこれほど体を酷使して、現在も伝道している音楽家に私の人生で出遭えたことのありがたき幸福感は、齢を重ねるにしたがって深まっている。
右からハンマサンカレ・土取さん・ヨロシセ・アサバドラメ |
土取利行さんの音楽家としての仕事は、多岐にわたっており凡夫の私には、その一端を甘受しているにすぎないが、まさに芸術家と呼ぶにふさわしいヒトというしかない。
時代を超えてやがては輝きを増してゆくであろう仕事を、ほとんど自力で継続持続、成し遂げているその精神のみずみずしさ、輝きに私は驚嘆する。
すでに何度も書いているが、五十鈴川だよりを読んでくださる方は、是非土取利行さんのブログも読んでほしい。このような前人未到の音の探究者 (つまりは人間存在のの根源に迫る音への旅)の真摯な生き方も含めての仕事を知ってほしいと思わずにはいられない。
私はいまあらためて土取利行さん に出遭えた幸運を噛みしめる。あれから40年、もし氏に出遭わなかったら、現在の自分はないであろうと思えるほどに、氏との出会いは衝撃的であった。
20代、土取利行さんのソロのパーカッション、ドラミングをなんどか聴いたのだが、私は完全に打ちのめされた。鞭のように細い体がしなり、閃光のように音の矢がわが体を刺し貫いた。
これからどのように生きてゆけばいいのか、途方に暮れていた私は、何やら啓示を受けたかのように、全身に希望と勇気が湧いてきたのを昨日のように思い出す。
今ほんの少し人生を振り返るとき、氏との出会いの大きさを思わずにはいられない。自分の心が揺れるとき、氏の存在は羅針盤のように、道を指し示す。
中世夢が原で、企画の仕事が継続できたのも、私の心の中に氏の存在があったればこそである。私にとっては、珠玉の出会いというしかない。
立光学舎・嵐の前の静けさ・なんとも言えないたたずまい |
話はここで終わらない。今回の郡上八幡音楽祭【マリの歌と弦楽の響演】でなんと、私は土取利行さんと再び再会したかのような不思議な感覚に、とらわれた。
それは人類の記憶の大地の果てともいうべき、西アフリカ・マリからの歌者、奏者と日本の歌者、奏者との、えもゆわれぬ出会い、友愛の上に奇跡的に生まれたというしかない、何か懐かしい、体内回帰的な、会場が幸福感につつまれた音楽祭であった。
土取利行さんの40年にわたる音の旅の成果(聖化)というしかないライブとして結実していた。そしてそのライブは真の意味で未来的、希望が持てる、未知の世界の人との根源的な信頼感の上にこそ成立していた。
土取利行さんは1978年、音の調査で初めて日本人としてマリを旅し、マラリアにかかり生死のふちをさまよい帰還している。今回の企画は氏の40年にわたる人と人との、音を通しての友情の上になされた、人間賛歌音楽祭であった。
世界の趨勢、時代は、まさに憎しみの連鎖を日々あおるかのごとき 魑魅魍魎が跋扈する感があるが、台風のさなか、郡上八幡音楽祭が未来に光を灯すかのように開催されたことは、何としても五十鈴川だよりに書いておかねばならない。