二日間、かなりの暑さの中、この年齢の自分としては、ギリギリまで身体を動かした。農の仕事に必要な、苗の置き場を確保するために借りた、荒れた土地の整地と、そこに在った樹齢30年以上の大きな桐の樹を切り倒し、その木の枝葉をかたずけたのだ。
A専務が率先垂範動いた。上司というものは、こうでなくてはいけない。部下をやる気にさせる能力なくしてはとてもではないが、上司は務まらない。
切り倒した後は、N氏と二人でもくもくとかたずけた。正直かなり肉体が悲鳴をあげそうに何回かなったが、そんな今現在の自分の身体の動きのチェックも兼ねて気合を入れた。
このように書くと、何やら、悲壮感が漂いますが、十二分に楽しんで仕事ができる環境を、A専務が与えてくださっているので、私はささやかに役に立っている充実感もあって、ことのほか作業を楽しめてやれる、自分の体を楽しんでいる。
何度も書いているが、生きていることの一番の嬉しきことの一つは、意識と身体がそれなりの年齢なりに、自由自在に動けるということだと思うからである。この感覚は若い時にはわからなかったが、今は身にしみてわかる。
使った道具は、鎌、鍬、草刈り機、ほうき、フォーク、ジョレン、チェーンソウ、バンジなど。限られた仲間と、これだけの道具で、わずか3日で見違えるほどに、荒れ地が整地された。人間は、やる気になると、信じられないほどのことが可能である。
要は、いかに一回こっきりの、老いてゆく晩年、何を持って情熱を持続させることが可能なのかということが、定年退職後の、私にとっての大きな課題であったが、A専務の掲げる農の世界は、私に年齢を忘れさせるくらいに、情熱の持続を今のところ私に与えてくれている。
一日、今日も心から働いたという気持ちのいい充実感が在る職場など、そうはあるものではない。現実は厳しい。赤字続きの中、A専務は限りなき悩みの中、ひょうひょうと農の夢の実現に向かっている。
このような、見果てぬかのような夢を持続するヒトと出会えたこと、そんな上司とともに働ける幸せを感じながら、今現在の日々を過ごせることのなんたる幸運。その深い自覚は、感じる私にしか分からないものである。
夕方妻とともに、再び頂いた桐の木の枝や幹を薪にする作業をした。考えてみると、子供に恵まれてからは、家と職場でほとんどの時間を過ごし人生は過ぎてゆく。
このほとんどを過ごす時間が、限りなく充実して愉しく過ごせれば、これに勝る幸せはないと思う。自分の人生は、自分で考えて切り開いてゆくところにこそ、そのだいご味があるのではないかという気が、私はする。
【今日は、カメラとパソコンのコネクションが悪く、写真アップすることができません、ご容赦ください、娘の婚約者のレイ君が仕事で、たまたま帰ってきていたので、なんとかしてくれそうです】
0 件のコメント:
コメントを投稿