我が故郷のある、九州一帯はすごいことになっている。一気に増える水かさは、この数十年の開発で、水路を超えて都市部に流入してくる。私が住んでいるこの家の近辺だって、砂川が決壊したら水没の危機にさらされるだろう。
まとまった雨量が一週間も降り続いたらと想像すると、天変地異の恐ろしさの前に、小さき我が身は、ほどほどの加減でと、祈るしかない。
ところで昨日書評を読んでいたら、伊藤比呂美さんという詩人が書かれた、木霊草霊(こだまくさだま)という本を持田叙子さんが取り上げておられた。
詩人である伊藤さんは、熊本県のご出身、現在は南カリフォルニアに住んでいて、この数年の間に母を見送り、父を見送り、愛犬も見送り、行ったり来たりで、たいへんだった後に、一人の静かな生活を送りながら、かかれた本らしい。
書名に私の眼はすぐ吸いつけられた。きっと私が農の仕事をしていなかったら、眼が行かなかったかもしれない。独り静かな生活を送りながら、小さいころからむしょうに好きだったと植物たちとの、濃密で神秘的な交感を綴った本とある。
みだしに、日米を往還する詩人の鎮魂歌とある。書評を読んで是非読んでみたくなっている。この数十年の温暖化の果てに、何やら地球というかけがえのない惑星が、明らかに人為的におかしくなってきつつあるのは、私ごときでもなにやらうすら寒く感じている。
人間ごときが、地球の上で、宇宙の中で、のさばって何をしでかしたところで、やがては大いなる眼に見えない、宇宙的摂理からしっぺ返しを受けるのは、当たり前ではないかという認識が私にはある。
話を戻す、そんなに深刻に大上段に考えなくてもいい、書評を読んで知ったが、詩人独特の感性でアリゾナの気候風土に生育するサボテンはじめ、手ごわい植物の羅列の数々だけでも、その手ごわさが、かすかに私にはわかる。
というのは、サンナンの畑に群生する手ごわい雑草は牧草にまぎれてやってきた、帰化植物だからである。わずか十数センチでも棘があり、ほっておくと背丈ほどにも伸び、そうなると半端な棘ではない。
おそらくアマゾンや、熱帯雨林に生きてうごめく、植物たちのいまだ見知らぬ世界は、私の想像力を絶するほどに、魑魅魍魎多様な種が無限の生死のいとなみを繰り返しているのだろう。
アジアモンスーンの気候風土に生を受けた私は、四季折々の恵みを受けてきたのを実感しているがその四季も微妙になにやら変化してゆきつつある。エゴで戦争なんかして、あらゆる兵器で地球を汚染なんかしている場合ではない時代に、我々は突入している。
クリーンエネルギー開発にこそ、人類の英知を絞ってほしい、と、朴念仁の私は願う。
安全に生きて食べられる幸せを感謝するのに、いかほどの哲学や宗教的素養が必要であろうか、畑にゆけば土がある、人間も植物も土と水と光がなければ存在が叶わぬ。
植物の世界では、生と死はつながっている。おそらく動物の世界も生と死はつながっている、そのような穏やかな感覚が、畑にいると我が身におきてくる。
それにしてもなんという奇妙きてれつというしかない、植物群の多様性、環境に適生進化し、生き延びる生命力のなんたる摩訶不思議、静かにあやかりたいと私は思う。
畑で手ごわい草たちと、ようやく私は何らかの関係性を持ちつつあるような気がしている。これまでは、単なる雑草にすぎなかった植物が、何やら生き物として、対等に存在しているという感覚。
妻はあたかも人間と話をするように花や野菜を育てているが、なるほど人間は人間とばかり話をするとおかしくなる(これまでの私がそうだ)、植物たちとも交感したほうが、穏やかに暮らせるのかも知れないなんてことを、最近とみに感じてしまう。
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