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2013-08-06

おむつ交換の講義・実技を受けながら考えました


昨日の講義でおむつ交換の実技の授業があった。その数日前は炎天下の中、車いす介助の実技も。とても一度の授業では身につくはずもないが、その大まかなことが、頭では理解できる。だが、頭で理解することと身体で理解することには、全くと言っていいほど大きな開きがある。

 

何事も身につけるということは難しい。そのことを人間は反復、繰り返しの中で、ある意味でいえば、現役で元気に生きている間はずっと、家事であれ何であれ、人間はなにごとも今も繰り返しやっているのだとおもう。(そして日々忘れながら、忘れられるから人はある気味で新鮮に生きられるのだとも思う)

 

しかし、ヒトは多かれ少なかれ、個人差はあるとはいえ、そのことができなくなる日をやがては、どんな哲人も、天才も、凡才も、あまねくその永遠の真理からは逃れることは出来ない。今日できたことが明日はできなくなる。がそのことを、私は限りなく肯定的にとらえ、考えてゆきたいのである。

 

おぎゃと生まれ、おむつをされ(母の無償の愛)やがてまた、おむつをし、どなたかの世話にならなければ、立って歩むことさえ叶わなくなる、ということ。そのことを元気に歩けるうちに、おもいたった時に、爪の垢でも学んでおきたいという気持ちが私にはある。

 

声を出せる時に、身体全部を使って、出会えた方々と、お互い恥をかきながら、いま現在の肉体からでる声を、無心で出す。そのことが、そのたまゆらの時間が、私にははなはだ貴重に感じられる。(台詞を暗記するには繰り返し声を出すしかない)

 

介護の講義を受けるに従って、あらためて、いかに人間が途方もなく繊細な脳や内臓器官の複雑な連携で、日々いきているのかを思い知らされる。そのことを、なかなか元気な時には、ヒトは深く認識することが叶わない、とくに私の場合は。在ることの不思議と素晴らしさ。

 

涙を流しながらパンを食べたものにしかその味、ありがたみは分からないというけれど、立てなくなってみて、初めて立てるということ、見えるということ、声が出せるということの、真の意味での理解が可能なのかもしれない。

 

がしかし、演劇的には虚構の中では、その真実に近い感覚を、擬似体験することが可能である。とくに生身の身体を使っての演劇的レッスンには大きな希望がある、(特に高齢者の)ということを最近私は感じ始めている。

 

私も含めて、ヒトはIT機器に取り囲まれて、自分の体を見失いつつあるのではないかという気がして仕方がないのである。

1 件のコメント:

  1. お元気で何よりです

    この仕事 「技術」はもちろん必要ですが
    「想像力」が 一番 重要だと思います。
    相手の方の目に 世界はどう映っているか
    どう 感じられているか

    特に 今 配置されているところが グループホームなので
    日々「私は女優!」(*^。^*)

    職業欄には 「介護福祉士」と書きますが
    「介護」という言葉自体は あまり好きではありません。

    「護」  なんとなく 上から目線、っていう感じで。

    若輩者が 偉そうなことはいえませんが。

    倉敷まで通っておられるとのこと。時節柄 ご自愛くださいませ。

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