ページ

2013-08-30

この夏の最高の思い出、80歳母の水着姿と優雅に泳ぐ姿に思う

80歳、今まさに飛び込もうとしているところ

母のことを少し書きたい。妻の母、知り合って26年になる。1933年生まれの母は今年80歳になった。昨日の朝、猛烈な痛みに急に襲われてお医者さんに行ったところ、腎臓結石と診断された。幸い石が流れ、大事には至らなくて、夕方には家に帰ってきた。

 

退職後、母と話をすることが多くなったことは、以前ブログで少し触れたが、私が介護の勉強をすることにしたのは、多少やはり母のことも影響している。

 

自分の両親、妻の両親。今ゆっくりとこの年で振り返ると、その存在の大きさを自分が歳を重ねるにつれて、日増しに大きくなってきているのを、実感している。戦後生まれの自分のこれまで考えると、母たちの世代の艱難辛苦はとても言葉では、言い表し得ぬものがある、ことを最近私自身、素直に感じ始めている。(晩年は他者のためにほとんどの時間を費やす暮らし。とても敵わない)

 

感じるからこそ、いろんな話ができる時に(自分の親とは出来なかったので)少しでも話をしておきたいという思いが深まってきたのだとおもう。母は5人兄弟の長女で小学校しか出ていない。戦後大陸から引き揚げてきた、義父と結婚し、大工の夫の仕事を支え、二人の娘を大学に出し、仕事一筋の義父が、私の父と同じ2000年他界してからは、私の家の近くで、家庭菜園と洋裁を趣味に、影のように私たちの暮らしを支え続けてくれている。

 

本当に大切なことは、身近なところにある。だがなかなかに人はそのことを意識しない。この数十年、我が家族がまがりなりにも、なんとか穏やかにつましく暮らし向きが続けられているのは、母の存在あればこそなのである。

 

そんなこの夏の一日、帰省していた娘たちと母、6名全員で2台の車で、芳井町の渓谷に川遊びに出かけた。そこで私は信じられない母の姿を見た。それは何かというと、50年ぶりに着たという水着姿であり、もっと驚いたのは優雅に泳ぐ姿(クロール・背泳ぎ・平泳ぎ)を、全員がハッキリと見たことである。とどめの驚きは、なんと小岩から頭で飛び込んだ雄姿、まるで普段とは別人の母を見た。それは夢のような姿として、眼底にくっきりと焼き付いた。

 

足からも娘たちと何度も飛び込んだが、その無邪気に遊ぶ姿は、まさに時空を飛び越えた童女と呼ぶに十二分で、芯から私を驚かし、感動させた。この母が間接的に娘たちを育ててくれたのだということを、今私は思い知しる。

 

小さいころから働いて、本も読む環境になく、あの当時の多くの日本人がそうであったように、とにかく体を使い親の仕事を手伝い、下の兄弟の面倒を見てきた母。

 

まっとうに生きるということのなんたるかを、そばでゆっくりと母から私は学び始めている。本を読むにせよ、学ぶにせよ、根本哲学無く、何のために企画をするかという自問自答感覚はけっして忘れたくはない。うまく言えないが、気晴らし(を否定しているわけではぜんぜんない)的な企画ではなく、他者の記憶の深いところにささやく、琴線に触れる、届く、企画を夢見る。

 
横着をせず、身体をきちんと使って働く、労働の根本を見失うと、それは机上の文化になってしまう。そのような芸術や文化が主流に(そうなっている)なるとすれば、私はその主流からは離れることを潔しとする。知性とは行動し汗をかく中から生まれるように思う。(その典型的な活動として、具体的に25キロにも及ぶ用水路をアフガニスタンの地で10年かけて実現した、中村哲先生は私が最も尊敬する、日本人の一人である)

 
ややもすると頭でっかちになりやすい私自身を、母からの生き方から反省しながら学び、平凡のすごさを、甘受する感性を磨きたいと思っている。水やり、土づくり、温度、観察、手抜きなく、何十年もきちんと向き合わなければあれほどの家庭菜園は出来ない。

 
61歳、まだまだ青二才を自覚するこの夏の終わりである。

 

 

 

 

2013-08-28

介護初任者研修の修了式前日の朝に思う


介護の勉強が妻のおかげで突然始まり、この夏は全く予定が変わってしまうという、意外な夏になった。暑いさなか重い介護の本4冊とオーバーではなく、私にとってこれまで全く触れることのなかった別世界の内容の本を、ひたすら学ぶという貴重な夏を過ごすことができた。またもや無知を思い知った。

 
退職後、これからは過去にやってきたことに執着せず、可能ならどんなにささやかでもいいから、新しいこれまでやったことのないことに挑戦しようとの思いが私のなかに生まれた夏ともなった。

 
明日の修了式で私のこの夏が終わる。ところで私は運転免許を北海道で富良野塾に入る前、31歳の時、歌志内というかって炭鉱町で栄え、今は廃坑となっている、さびれた町にある、自動車教習所で取得した。(その時の経験はいつか文章にしたい)真冬の合宿免許で、運転したのはもちろん雪道、初めての北海道の冬でとにかく寒かった。怖い教官だったが、私が合格すると、良くやったとほめてくれた。

 
その教官が、もってて損することはないし、富良野で役に立つこともあるかもしれないから、余裕があれば、大型特殊の(トラクターなんかが動かせる)免許も取っといた方がいいと薦めてくれた。いつの日か堅実に暮らす日のためにも、私は言にしたがい取得した。

 

富良野に行く選択をせず、あのまま東京暮らしを続けていたら、私は一生車の免許を持たない人生を歩んだかもしれないのだ。以来30年、他に私は何の資格も持たずに生きてきた。明日、61歳で介護初任者研修の資格が頂けることになった。

 
子育てもほぼめどがつき、家人の理解もあり、退職後自分ではいい感じで過ごしていたのだが、御正月長女が婚約したことから、私の中に孫というか、未来というか、そういういわく言い難い何かが芽生えてきて、フルタイムではなくとも、今しばらく、家族のためにも自分のためにも働きたいという意欲が湧いてきたのだ。

 
考えてみると、18歳から生きるがために何がしかの生活の糧を得るために、私は働いてきた。夢と現実に引き裂かれながら。書物と労働、この二つが、いまの私をなんとかここまで生きさせた。おかげさまでかけがえのない家族とも巡り合えた。そのことへの感謝の念は、いま静かな生活を得て深まる。

ともあれ、どのような仕事であれ、私に仕事が与えられるのであれば、私は全力で事に当たるつもりでいる。

 
幸い、これも挑戦するという気持ちで4月から始めたシェイクスピア遊声塾も素敵な生徒さんにも恵まれ(現在5名)週一回いい時間を過ごしている。

 
介護の勉強に明け暮れた夏は、この先どんな仕事をするにせよ、富良野とはまた異なる新しい生活を、私に与えてくれるような予感がする。私が落ち込むと母がよく言っていた。文学座を受ける27歳の時、もういい年だからと弱音を吐くと、今が一番若いんだよと。

 
働きながら、企画する。人間の善悪を、存在の不可思議を素晴らしさを学び企画したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013-08-27

谷川健一先生のご冥福をお祈りします


雨が続き、乾いた私の心にもいくばくかの潤いがもどってきた。暑さも一段落し、この数日は、気持ち良く眠ることができた。

 

私はクーラーをよほどのことがないと使わない、落ちてゆく代謝がますます悪くなるし、(熱中症の原因だと思う)クーラーの利いた部屋から出る時の、あの何とも言えない、湿気がまとわりつくような暑さを感じるのが嫌なのである。だから、水分を補給しながら、汗をかける自分の体を、なんとかキープし秋を待ちたいと考えている。

 

さて一昨日、もうおそらくこのような民俗学者は出ないであろうとおもわれる、谷川健一先生がお亡くなりになった。私ごときが何も書くことはないのだが、まだ東京に住んでいたころ、桃山さんと土取さんが、岐阜の郡上八幡に創られた芸能堂、立光(りゅうこう)学舎で行われた催し、伝でん奥美濃ばなし、のゲストとして来られていた際、御眼にかかったことがある。

 

桃山さんに紹介されたのであるが、無知蒙昧丸出しの私は、谷川民俗学と呼ばれるまでの、氏独自の、深い民俗学世界のことをまるで知らなかったし、いま持って爪の垢くらいしか知らない。だが、あの時の独特というしかない大人(たいじん)の雰囲気、オーラは、私の中にくっきりと残っている。ご冥福を祈る。

 

九州は熊本の出、92年の人生を終えられた。この5年間で、つぎつぎと大きな仕事をされていた方々がお亡くなりになるのを、間接的に知ることが多くなってきた。最近の私は両親を含め、死者たちと暮らしているというような感覚が、私を支えている。

 

話は変わり、若いころは、根気と才能と体力(今も体力には自信がない)がない自分に、嫌けといら立ちを覚えたりもしたのだが、世の中がバブル全盛のころ(今考えると)30歳間近、あらゆることに行き詰まり、31歳で倉本聰氏が設立した、富良野塾に参加した。そこで私は何も考えず、(新聞もテレビもない)ひたすら3年間身体を動かした。

 

卒塾した私は34歳になっていた。それからの私はどんな仕事であれ、何をやってでも食ってゆけると胎をくくれたように思う。

 

5人兄弟の4番目、18歳で小志を抱いて上京はしたものの、ただ働くだけでも大変なのに、その上夢みたいに演劇を学ぼうとしていた自分の無謀さが、今となれば充分に理解ができる。がしかし、もう一度青春時代に帰りたいかと問われれば、私はノーと答えるだろう。

 

いまこの年になりおもうことは、やはりいくら無謀でもあの時、自分はあのような選択してしまったし、生きて挑戦したからこそ、あらゆる独学的時間を過ごしたればこそ61歳の今の自分を迎えることができているのだともおもう。

 

ふりかえり富良野での大地に這いつくばった体験が大きいと、今思う。再びの東京暮らしで現在の妻と出会い、いよいよ私は上昇思考ではなく、下降思考する人生を考えるようになっていった。東京から、岡山への移住を決定的にしたのは、娘が生まれたからだ。

 

親子3人静かに暮らしたいと、痛切にあの当時考えた。富良野を通過した私には、何をやっても生きてゆく自信のようなものが、遅まきながら生まれていた。過去と決別し一から
新天地でやり直す覚悟ができ、私は美星町の中世夢が原に職を得た。運命とはまさに一寸先は分からない。

 

その娘が、この21年ひたすら夢が原で働いているうちに我々夫婦のもとを巣立っていった。下の娘も、大学2年生である。巣立ちは近い。

 

そして今、退職して5カ月が過ぎ、いよいよもって私は妻と共に、下降してゆく老いの時間を、どうしたら前向きに生きてゆけるのかということを、うすらぼんやりと思考している。

 

 

 

 

 

 

 

 


2013-08-21

戦後68年の夏、61歳私自身の貧しさを考える


この夏はというには、まだ今日も暑い夏が続いている、お盆も終わり娘たちも帰京し、約2カ月ホームステイしていた、ロシアの娘さんもいなくなり、我が家はにわかにがらんとしている。

 

極めて個人的な、一庶民の他愛もない自己慰安ブログ、五十鈴川だよりなれど、ときおりはやはり、書かずにはいられなくなるようなことが湧きあがってくる。何か理屈ではない整理しきれない感情があるからこそ、企画したり書いたりもしているのだ。そういうエモーションがなくなったら、以前も書いたが私は静かな暮らしに帰依するつもりでいる。

 
朝一番、新聞の一面に、漏えい汚染水300トン、福島第一タンク、計24兆ベクレルという文字が飛び込んできた。

 
ブログを書くつもりはなかったし、正直この暑さのせいばかりでもないのだが、能天気な私にしては珍しく、気分が何とはなしに沈みがちになってしまうことが多い世相の中で、介護の勉強や、個人的な独学勉強、そして今を生きる生活をしながら、なんとかしのいでいる、といった按配の夏なのである。

 

この10年くらい、個人的な気休めというのか、自分でもよくはわからないのだが、休日落ち着いて、新聞の気になった記事を切り抜いたりすることを、量ではなく、ほんのわずかでも、それをすることで、世界と交信し独学する感覚を失いたくはないような心持で続けている私がいる。

 
そんなノートが、知らず知らずのうちに随分と溜まっている。このインターネット時代に何をしているのであるかと、我ながら砂をつかむような徒労感を覚えながらの、自己慰安切り抜きなのである。

 
ところで昨日、40数年ぶり、黒沢明監督の、【生きものの記録】誰もいない家で、午後汗をかきながら独りで見た。1955年に創られているから、私が3歳の時の作品である。後年上京後、私が映画館で見たのは19歳である。

 
答えはないものの時を超えて感動した。いまの自分の中にあの頃の感受性が残っていることが確認できた。黒沢明監督の作品に、田舎の少年だった私は、多大な影響を受けて育った。(おいおい拙くても書けるときに書いておきたいとは思っている、それくらいしか
私は娘たちに残すものがない)

 
愚直なまでにストーレート、時に生き苦しいくらいである。画家としての本質がゆるぎない画面、白黒なのに色を感じる、ツヤ、張り、陰影、アップ、音、長回し、俳優のすべてを引き出す能力、限られた予算、技術、興業的にヒットしなければ、次がない重圧。まわりに多大な迷惑(本人はいい作品をとることしか眼中にない、芸術の神に殉じている。またそんな映画バカしか黒沢組には集まらない)をかける。黒沢作品の中で興行収益がもっと悪かった作品といわれている。

 
話を戻す。被爆、放射能、核に関する、記事を切り抜くことが、量ではなく3・11以後増えてきた。実感できなくとも、想像力を鍛え、ささやかに企画をするバネを養いたい、一人の庶民として呆ける直前まで続け、考えたい。

 
改憲論議がかまびすしい。経済発展とは何か、世界の幸福とは一部の者たちのための幸福なのか、先の大戦でなくなった、日本だけではなく、北東アジア、アメリカ兵、ごく普通の庶民も含めた、何百万にも及ぶ死者達、とどめは人類史上初めて我が国に落とされた、原子爆弾。累々とした屍、人命とは。死者たちは語らない、(語れない)身を焼かれ切られ、経験した者にしかわからない灼熱の最中の、地獄の痛みと飢え。こんな不条理をしてはいけないと、私は学校で習ってきたし、両親も繰り返し、戦争はしてはならないと私に語ってきた。

平和を享受し、今を生きる健康なわが身としては、両親の遺言は守らなければならない。

 
戦争には勝者も敗者もなし、誰かの命令で縁もゆかりもない方々と、殺し合いをする(今もシリアやアフガニスタンなのでは、生活のため生きることが不可能なため、傭兵となっている現実)不条理、暗愚というしかない。大義とか正義のために、他者の命を奪うこと、頭の悪い私にはなんとも理解が不可能だ。

 
以前も書いたが、私はアメリカの占領政策が終わり、日本が再び独立国家の体をなした年に生まれた。戦後68年の、61年間を平和裡に生きて来られたものとしての有難さを、ささやかに歴史を学ぶに従って歳と共に痛感するようになってきた。

 
だからハッキリと、今ここに書いておきたいのだが、この平凡な平和を脅かす、改憲論者たちの言動には、耳を澄ませないと、何よりも自分たちの未来や子供たちの未来が(自分の国のことだけを考えている時代ではとっくになくなっている、人類存亡の時代に突入している)大変なことになるというのが私の認識だ。

 

チェルノブイリ、福島、そしていまも世界中で行われている核実験(70年間くらい)の死の灰は、あまねくこのなんとも美しい水の惑星を、蝕み続けている。人間がが作った核汚染物質、放射能は、見えないけれどゆっくりと姿を現し、生きものの生命を、特に赤ちゃん子供の弱い命をむしばむ。【生きものの記録】のラスト、赤ん坊をおぶった母親と志村喬が階段ですれ違うシーンは秀逸だ。

 

お金と物にむしばまれ、特に戦後、命が軽んじられや大切な事物の価値が逆転してきた、という気がしてならない。その渦中のほとんどの時間を生きてきた私もそうである。そしてその現実の前で、私自身アップアップの夏を過ごしているのだ。

 
気がつけばきれいな海や山を(私の記憶の中の原風景は、かろうじてアスファルト化される前の、手つかずのきれいな、海と川だった)見に大枚をはたいてよその国にまで出かけてゆくような、世界遺産ツアー時代となり、行った先の人びとの置かれている現実には、とんと想像力が及ばなくなりつつある。

 
この私自身の貧しさをこそ、この年にして私は見据え続けてゆかなければならないという気が311以後してきている。考えることには、何も要らない。

 

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 

 

 

 

 

 

 

2013-08-18

暑い夏・介護職員初任者研修講義、無事完走しました

左から長兄・姉・二男・私・一番下はタイにいる

一昨日、介護職員初任者研修の最後の講義、午後筆記試験があり75日から始まった全ての日程を無事完走(130時間の講義を受けた)することができた。初日は17名の方が参加されていたが完走したのは13名だった。男子8名、女性5名である。

 

29日が修了式である。受かるかどうかは分からない、補修がこの間にある。今はただなんとも言えない、疲労と充実感が身体を包んでいて何もしたくはないのだが、何かを書きたいという、自己慰安ブログである。

 

時間を見つけて、書けるときにおいおい書いてはゆきたいものの、自分の身体や心というものは、おいそれとは思い通りにはならない。それでも一歩一歩書いていれば、何がしかの拙い念いではあれ、ささやかに家族に残り伝わる(別に伝わらなくてもいい)。

 

311以前のブログと以後では、明らかに何かが変化しているし、囲炉裏通信から五十鈴川だよりに変わってからは、全く変わった。この間のそこはかとなく揺れ続ける、内的な個人的揺れは、お恥ずかしいほどだが、そもそも生きてゆくことはどこか恥ずかしいことだという認識が私にはある。

 

夏の暑さと疲労で、とりとめなきブログになりそうだが、何故介護について学び始めたのかは、また体調がいい時に、ゆっくり考え書きたいとも思うし、書かなくてもいいという気もしている。内的に湧きあがってくるエモーショナルな情動を、説明するのが私はことのほか苦手である。そして、その情動もやがては叶わなくなる、有限である、そのことを父の死・母の死で、私はかすかにおもい知った。

 

話は変わり、ブログでは触れる余裕がなかったが、先日(731日)わずか一泊だったが福井県に向かう途中、長兄家族が岡山に立ち寄ってくれ、しばし兄弟で面と向かって話しができた。小さいころを共有した者同士が思い出を語れる、おたがい晩年をいい感じで迎えたればこその、いわば至福の時となった。

 

寛容な心持で話ができる、このような時間が訪れるとは若いころは思いもしなかった。世の中に出てばらばらに生きてきた我が姉兄弟なのに、晩年になって輪が繋がったのである。今は亡き両親に見せたかった。幼いころしか知らない兄の娘が(私の妻と同じ名前)結婚することになった。幸せな時間とい言うしかなかった。

 

後何回兄や姉と、このような時間が持てるのだろうか。以前も書いたかと思うが、この年にならないと、なかなかにこのような心境には至らない、これを老成と昔の人は言ったのかもしれない。兄は今年初孫に恵まれ、御爺さんになった。

 

やがては私も、孫に巡り合うことがあるのだろうか。

 

世界の行く末に思いをはせると、暗澹としてしまうのだが、いつかの終わりのその日まで、ヒトはやはり家族を持ち、幻想を持ち、生きてゆかざるを得ない。絶対矛盾を抱えながら、5人の子供を育ててくれた両親に、やはり私は最大の影響を受けている。

 

 

 

 

2013-08-15

61歳・敗戦の日の朝に思う

美作の小さな滝に打たれる怜君と娘

敗戦記念日の朝、暑中昭和は遠くなりにけり、といったなんとも形容し難い気分のこの夏の私である。無数の死者たちを想い、ひとりの人間として手を合わせ、両親に線香を手向けた。

 
ブログでは、なるべくは明るい話題や、私自身の日々のささやかな暮らし方の希望のようなことを綴りたいとは思うものの、私自身の性格に、起因することでもあるとは思うのだが、少々真夏の憂鬱を抱えてしまった感がある個人的な夏である。

 
がしかし、生来楽天的であり、災い転じて前向きにしか物事を考えない父の遺伝子を抱え込んでいるので、潔く男子(父の教育は恐ろしい)たるものは、在りたい。(本当に古いタイプの人間になりつつあるような気がする)卑怯といいわけは、私は苦手である。

 
この夏は、偶然、(いまは必然という気がする)介護初任者研修を学び始めたことで、61歳で極めてストイックな夏を過ごしている。この夏は、徳島で手漉和紙の作家を訪ねて以来、お休みらしい時間を過ごせなかった。そして今も勉強のため本を読んで学ばねばならないことに日々追われ、きつい夏をすごしている。

 
がしかしお盆休みに入り、娘と婚約者のレイ君が帰省していて、しばしの家族時間を過ごし気分転換をしている。家族というものは、多分に幻想的ではあれ、私にとってはかけがえのない、分身である、救われる。

 
ところでこの夏の、尋常ではない暑さは、とくに年齢的に日中思考能力がかなり落ちる。自分の身体が浮いているような感じ、集中力が続かない。熱中症でお亡くなりになっている方々の、ニュースが痛ましいが、他人事ではない。死はいつも隣り合わせである。

 
爪の垢ほど、介護のことを学ばせてもらっている(だから多くを語りたくはない)、熱中症のことも含め、今この国の昭和の大半を生きてきた方たちがお年寄りとなり、置かれている晩年について、私は以前にもまして想像する、感覚がそば立つ。世界は光と闇で成り立っているとは思うが、この一見の賑やかさの背後に、置かれているお年寄りたちの闇の深さには、呆然としてしまう。

 
かくいう私だっていい歳である、他人事ではない、人は皆、こちら側とあちら側を、往ったり来たりしながら、螺旋状に黄泉の国に向かう生き物であることは、頭では理解できる。だが、悲しいかな、人はその現実を眼前にしなければ(私はそれでいいという考えだ)死という現実は容易にはリアリティを持てない。やがては誰かの手の世話になる。

 
先の上京で、オロというフィルムを撮られた、岩佐監督が事故でお亡くなりになったことを、友人であるT氏から知らされた。【オロ】は岩佐監督が愛したチベットの少年オロとのたまさかの交流を淡々と描いたフィルムである。白昼夢のような夏の暑さの中で、蜘蛛の糸のように考える。

 
岩佐監督はオロという作品の中で何を描きたかったのだろうか。そして、何故私は今この年齢で、【オロと祝の島】を二本、ほぼ同時に企画したいのか、正直自分でもよくは分からない。これまでの、大半の企画もそうだが、自分でも分からない感情、感覚に突き動かされて、企画してきた。オロは私の大切な友人が心血を注いで、カメラを回して作り上げた作品である。監督と同じ姿勢で、チベットの少年の心に寄り添って作り上げた作品である。

 
祝(ほうり)の島は、はなぶさ(むつかしい漢字)綾監督の第一回の作品である。何度かお目にかかったことがあるのだが、一途な瞳がまぶしい、不良親父の私を驚かせる肝っ玉の据わったフレッシュな女性監督である。

 

私の人生で御縁の在った方々が、どん詰まりのなか、過酷な運命を懸命に生きておられる方がのもとに寄り添い、何かを賭して何年も足を運び、現地の方々に寄り添って創られた、ドキュメントフィルム。難しい理屈より、映っている何代にもわたって人間の積み上げた暮らしの重み、生きてきた証の自信に満ちた顔が、生活が、たたずまいが、なんともはや私をして打つのである。私の原風景の感覚に近い世界。

 
たまたま、今私が蟻のように読み進めている、渡辺一枝さんが書いた、・消されてゆくチベット・という本がある。(チベットという国の置かれている過酷な運命には言葉を失う)その渡辺さんが、祝の島のパンフレットに一文を寄せておられるのを最近知った。やはり、何かが結びついているのである。渡辺さんは、椎名誠さんの伴侶でもあられる。

 
介護の勉強が一段落したら、お墓参りに帰省し、ささやかにであれ、今できる形でのベストを尽くし、ひとりの人間として悔いなく企画したい。

 

2013-08-10

猛暑の中、庶民の一人として風を感じながら考える


75日から受けていた講義も昨日で一段落、御盆休みに入り残すところあと2日となった。

 
退職して初めて迎えたこの夏は、又一つ私にとっての転機になる夏となりそうな気配である。

 
熱い夏が続いている。誰もいない家で部屋を開け放ち、風がときおりぬける場所にパソコンを持ってきて、何とはなしに文字を書きたくなった。妻が丹精した朝顔の日よけのおかげで、網戸越しに、ときおり涼やかな風が、なんとも言えず肌に心地いい。

 
私はこの10年くらい、新聞は御休みの日にまとめて眼を通すようにしている。今日も二時間くらいかけて眼を通した。新聞ひとつでさえ、心穏やかにゆっくりと落ち着いて読んでいると、いろんな驚きや発見があり、ときおり気分がグルーミイでも、ささやかに元気を頂ける。

 
とくに、8月は6日、9日は一人の日本人として、けっして忘れてはならない、風化させてはならない、世界史的にも空前絶後の出来事が起きた日である。若いころは生きるのに忙しく、自分自身の生理的な感覚の遠さ、受けとめる力の無さ、ある種の虚無的な無力感にとらわれていた。

 
がしかし、歳を重ねるにつれ一人の人間として、スローガンとしての核廃絶ではなく、よたよたと考えているというのが、正直な気持ちである。時に至らない自分を恥じながら。とくに最近だが、被爆をされた方の新聞記事とか、いまだに突然発症される方がおられるドキュメント番組なんかを見ると、以前よりずっと前向きに、読んだり見たり、切り抜いたりする自分がいる。

 
今でもはっきり見た映画館を覚えているのだが、19歳位のころ、池袋の文芸坐で、黒沢明監督の・生きものの記録・というフィルムを見た。今よりはるかに純粋多感な少年だった私は、オーバーではなくかなりの衝撃を受けた。

 

愚直な位のストレートなフィルムで、見終え(まさに夏だった)外に出て、ひとり茫洋と懐は貧しく大都会の喧噪の中で、主人公とは全く世代も何もかも異なるのに、ある種の共有する孤独感と絶望感にさいなまれた。全く田舎から出てきて何の自信もない、吹けば飛ぶような、発達障害のような痩せた少年だった。

 
黒沢明監督は、まさに予言したかのように、晩年の・夢・という、オムニバスのフィルムで原子力事故が起きた現実をえがいている。

 
私が上映会を企画したい、祝(ほうり)の島は、40年にわたって、原子力発電の誘致に反対し続けている島民たちの根のある暮らしを数年追い続けたドキュメントである。

 

 

2013-08-06

おむつ交換の講義・実技を受けながら考えました


昨日の講義でおむつ交換の実技の授業があった。その数日前は炎天下の中、車いす介助の実技も。とても一度の授業では身につくはずもないが、その大まかなことが、頭では理解できる。だが、頭で理解することと身体で理解することには、全くと言っていいほど大きな開きがある。

 

何事も身につけるということは難しい。そのことを人間は反復、繰り返しの中で、ある意味でいえば、現役で元気に生きている間はずっと、家事であれ何であれ、人間はなにごとも今も繰り返しやっているのだとおもう。(そして日々忘れながら、忘れられるから人はある気味で新鮮に生きられるのだとも思う)

 

しかし、ヒトは多かれ少なかれ、個人差はあるとはいえ、そのことができなくなる日をやがては、どんな哲人も、天才も、凡才も、あまねくその永遠の真理からは逃れることは出来ない。今日できたことが明日はできなくなる。がそのことを、私は限りなく肯定的にとらえ、考えてゆきたいのである。

 

おぎゃと生まれ、おむつをされ(母の無償の愛)やがてまた、おむつをし、どなたかの世話にならなければ、立って歩むことさえ叶わなくなる、ということ。そのことを元気に歩けるうちに、おもいたった時に、爪の垢でも学んでおきたいという気持ちが私にはある。

 

声を出せる時に、身体全部を使って、出会えた方々と、お互い恥をかきながら、いま現在の肉体からでる声を、無心で出す。そのことが、そのたまゆらの時間が、私にははなはだ貴重に感じられる。(台詞を暗記するには繰り返し声を出すしかない)

 

介護の講義を受けるに従って、あらためて、いかに人間が途方もなく繊細な脳や内臓器官の複雑な連携で、日々いきているのかを思い知らされる。そのことを、なかなか元気な時には、ヒトは深く認識することが叶わない、とくに私の場合は。在ることの不思議と素晴らしさ。

 

涙を流しながらパンを食べたものにしかその味、ありがたみは分からないというけれど、立てなくなってみて、初めて立てるということ、見えるということ、声が出せるということの、真の意味での理解が可能なのかもしれない。

 

がしかし、演劇的には虚構の中では、その真実に近い感覚を、擬似体験することが可能である。とくに生身の身体を使っての演劇的レッスンには大きな希望がある、(特に高齢者の)ということを最近私は感じ始めている。

 

私も含めて、ヒトはIT機器に取り囲まれて、自分の体を見失いつつあるのではないかという気がして仕方がないのである。