シェイクスピア音読自在塾、昨年一人のかたの参加があり、コロナ渦中ではあったがやっていた、がそのかたが参加できなくなり、そうこうしているうちにウクライナでの戦争が始まり、暫し音読どころではなくなり、10年ぶりに企画をすることとなった。
ウクライナの戦争は未だ収束の気配は見えない。この間、日々のルーティン生活を送りながら、今もだが内面の忸怩たる閉塞感は消えない。だが揺れるおもいを五十鈴川だよりを打ちながら、なにかせずにはいられない不確かな自分がいる。
音読で・老い活たのし・古稀をゆく |
10月沖縄を訪れ、畏友、K夫妻にお会いしたことが奇縁で、多嘉良カナさんという稀代の音楽家と出会うことができた。多嘉良カナさんを来年企画することを、決めたことで、何やらどこか体に風が入り込むようになり、いっこうに終息の気配の見えないコロナ渦中ではあるのだが、とりあえず音読自在塾を再開することにし、中断していたYさんにお声をかけたら、やるとのお返事をいただき、11月から平均月に2回のレッスンをやっている。
昨日で年内のレッスンを終えた。ハムレットから始め、今40年ぶりに、二人で長大なヘンリー6世3部作の一部、二部の一幕を音読し終えた、ところである。Yさんは、遊声塾で丸3年以上声をだし続けていたので、素直に素読する基礎がかなりできていたので、初見で新しい松岡和子先生の翻訳による文体にも、そこそこ必死に食らいついているので、期待が持てる。
寡黙でお上手がなく、現在地のギリギリのところで、踏ん張って、ともあれレッスンを積んでいる。初見でいかに音読するか、これは私だって全く同じことなのである。その後何回も繰り返し、音読する作品であれ、なんであれ、すべては最初の音読が肝心である。
40年ぶりのヘンリー六世3部作だが、20代の終わり、ジャンジャンと俳優座劇場で、端役で出演したことがあるので、あの当時のことが思い出され、音読していてなんとも言えず、嬉しく楽しい。松岡和子先生の翻訳でハムレットもヘンリー六世も、鮮やかに新鮮な感覚でもって音読できるえのが、なんとも言えず嬉しい私なのである。
音読と平行して、時間を見つけては、ただ静かに時間を過ごしたいがために、松岡和子先生の翻訳文体の長い台詞の(好きな作品の)筆写も始めたことは、すでに書いたが、これがまた意外なことに思ったよりもはかどっていて、楽しいのである。
一月で、ハムレット、オセロー、間違いの喜劇の主な長い台詞を筆写し終え、昨日から夏の夜の夢に取り組んでいる。ボールペンで大学ノートに書くのだが、打つのと、書くのとでは全く感覚が異なる。読み、音読、書く、打つ、インドアで。そしてアウトドアで肉体を天の下で動かす。基本ルーティン生活がほぼ決まってきつつある、古稀生活である。