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2020-09-18

コロナ渦中でのふるさと帰省の朝に想う。

 きょうから4日間ほど故郷に帰省する。朝早く出発するし、起きたばかりで何を書きたいのかも判然としないが。このコロナ騒ぎの渦中、6月に続いて二度目の帰省である。

そんな中での帰省なので、脳天気な私だがやはりちょっと格別なおもいの帰省である。そして今回は妻が久しぶりに同行してくれる、のがやはりうれしい。

妻のことはほとんど五十鈴川だよりには書いていない。本人が嫌がるからである。でもいずれ私がもっと老いたら、この女性と巡り合わせてくれた運命のお導きに感謝し、そのことを綴らずにはいられない、日がやってくるかもしれない。

いずれにせよ、様々な理由で一緒の帰省がかなわなかったので、お互いが元気なうちにお墓参りもかねての同行旅がかなうのは、これ以上書くのは昭和男子としては野暮である。

五十鈴川だより、五十鈴川が流れるわが小さな故郷は、日本各地のほかの辺境に在る土地と同じように、過疎化が止まない小さな港町である。そこに生を受けて68年、寄る年波と共に、この町に生を受けた幸運を、噛みしめている。いずこの町も同じように、戦後のわが町は激変した。

この町には幼少期を共にした姉と二人の兄が、近所に家を構え元気に暮らしている。私の原点である幼少期の思い出を語り合える大切な人間である。静かにつつましく暮らしているわが姉、兄たちと共に語り合える時間は少なくなるので、今この時をとのわが想いなのである。

今夜は妻も同行しての帰省なので、全員が集うことになっている。家族が集うことが少なくなっている昨今だが、昭和男子のわたしとしてはあの古き昭和の思い出があるからこそ、今を何とか生きていられるので、私としては五十鈴川のほとりで、今も静かに穏やかに暮らす兄たちや姉との年に数回の里帰り再会は、喜びという以外ないものである。

時間が無くなってきたので、もうこれ以上書けないが、生れ落ち、生を受けた土地というものの記憶というものが、私を故郷に回帰させ老いてもなお、いまだ私に元気と潤いを与えてくれるのである。ただ私は元気に故郷に帰れる現在、只今がただ嬉しく、ただいまと帰るのである。

2020-09-11

9月11日、少し涼しくなり秋の気配を感じる朝に想う。

 9月11日。ニューヨーク同時多発テロが起きた年。あれから20年が経つ。忘れもしないあの夜の画面を通してみた、空前絶後のあの惨劇。たまたま一緒に共に見た長女が小学校の5年生だった。

(脳天気に、穏やかに、平和を享受していた 私の生活に、いったい世界で何事が起きているのか、考えないと大変なことになるといった、漠然たる不安がにわかに沸き起こったことをおもいだす)

その娘が 31歳になり一児の母親になっている。あれからの本格的なインターネット時代が私の中で始まったような記憶がある。私自身が遅まきながらパソコンの海の扉を自覚的に開くようになった。

一口に20年、この間の凄まじい時代の空前絶後の推移。出来事の諸相、テクノロジー革命といってもいいほどの急激極まる大変化を我々の生活に、今現在ももたらしている。(後年いろんな角度から語られるであろうがその時には私はいない)そしてコロナブルーが、鬱ぜんと世界をおおう。

その渦中を何とか生きている、生きられているというのが正直な私の気持ちである。人間はやがてなれ、忘れる。どんな悲惨にも。だから、私のようなものは生きられるともいえる。

忘れないと、とてもではないが息がつまる。深呼吸、月や青空雲の流れ、花々、美しき普遍的な物語や音につつまれないと身体がきっと病んでしまう。

鬱になったり、病んでんでしまう人の方が、ある種の動態平衡感覚があるのではという気がしてしまう。善と悪がこうまで曖昧模糊として判然としない、割り切れない時代がやってくるとは。だが、人類はあまたの受難を引き受けてきた、先人たちの偉大な営為にまなぶ、コロナブルーの日々である。

まさに時代の明日は、皆目初老男にはわからない。だがギリギリ、心と体が喜ぶことを念い積み重ねる日々をいきるほかはない。。

 とまあ、朝からちょっと意外な展開の 五十鈴川だよりになってしまったが、ほぼ社会的な役割を終えた初老凡夫としては、ことさらに時代に添い寝するような感覚はとうの昔に、うっちゃったので、もう何事が起きても驚かない(でもやはり驚くだろうが)。

このようなことを書くと、何やらわびしさが漂うが、きっと老いるということは、(何しろ初めて老いているので)現時点では、そういうことなのだろう。だが今しばらく絶対矛盾を抱えながら、老いてゆく体にしがみつき面白可笑しく生きてゆく術を模索したい。少し涼しくなった 秋の気配の朝に想うことである。


 

2020-09-05

台風10号が近づく朝に想う。

 綴る回数が少なくなったが、五十鈴川だよりは有為転変を受容しながら、今を生きるささやか凡夫生活をわがままにつづる。

早9月である。今日から明日にかけて驚異的な台風10号が九州全土をすっぽり覆いながら通過しそうである。過日の熊本球磨川流域災害に遭われた方々の心中を思うと、言葉がむなしい。

昨日兄とメールのやりとりをしたが、今回はすでに家の周り他の台風対策の備えをしているとのことだった。こうも自然災害、ウイルスの脅威、猛暑等々が矢継ぎ早に襲来すると、誰だってこたえる。

いきなり話は変わるが、噺家の林家木久扇さんが先日、M新聞の特集ワイドの コーナーで、コロナの時代を面白がって生きるコツを語っておられた。現在82歳、東京大空襲を日本橋の生家で7歳の時に体験しておられる。7歳にして雨のように降るB29の焼夷弾が爆発する様を生で見ている。

 木でできた日本の家屋を、焼き払うために発明製造された焼夷弾。密集した庶民の家屋が瞬く間に燃え上がる。一晩で10万人が焼け死んだ東京大空襲、その地獄を7歳の少年はみた。

今現在80歳以上の方々で、当時東京エリアにお住まいだった方々は、あの地獄の在り様を体感なさっておられるはずである。悲しいかなヒトは体感しないことは、身に染みてはわかりえぬ存在である。

だが、わたくしごとだがコロナの渦中のおかげで、以前よりずっと私より一回り上の、あるいはそれ以上の年上の方々が経験された事実の重さに耳を傾けることが、改めて 大切だと今更ながらに、気づき始めている。

インタビューで木久扇さんは答えている。あの空襲を体験しているのでこのコロナ騒ぎも冷静でいられると。罪なき庶民、ヒトが無残にも死んでゆく、殺されてゆく不条理を7歳で垣間見た少年は、生きてゆく上での肝心かなめ、座標軸をしっかりとつかんで、その後の75年間を生きるのである。死屍累々の屍は戦場だけではなかったのである。

いざことが起こったら、このような過去の出来事は今現在も十分に起こりうる、くらいの想像力を持たないと、危険な時代である。あきらかに平和ボケしていることを告白しておく

木久扇師匠の言葉は、本当に私にはわかりやすく腑に落ちる。師匠は言う、生きているだけで得だと。何も持っていない人間は強い。体一つ、芸だけ、落語という話芸で、聴衆の心をもみほぐす。すごい、素晴らしいというしか言葉がない。

馬鹿になる自由さ、子供がお砂場で無心にお金がなくても遊べるのに、私も含めた大人は、何と不自由で、気が付けばお金がないとにっちもさっちもいかないという、強迫観念に取りつかれている。

じゃあ、どうすればいいのかは、各人が考えるしかないというものの、へたな考え休むに似たりともいうし、要は五十鈴川だよりで何度もかいているが、あまりお金に頼らずに一日を身体が喜ぶことを、気持ちのいいことを見つける生活を、私の場合心がけてゆく、くらいにしか思い至らないのだが。

馬鹿の一つ覚えのように、わが全財産、体に今もしがみついて、かってに動いてくれている体の全体、生まれ変わる細胞、心臓をはじめとする諸器官に私は想いをはせる。しかし、身体のどこに心はあるのか、今もってわからない。わが初老凡夫の心は、時代の風次第で 葦のように彷徨い揺れる。事実、死んだら、揺れることすらできない。生きていることは神秘で面白い、という側に木久扇師匠のように私も立ちたい。

台風10号に話を戻す、通過した後わが故郷も含め最少の被害で済むように祈らずにはいられない。