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2014-10-27

ドレスデンへの旅を書き終え、思うこと。

読み返してみると、誤字や、日にちの間違い、変換ミスが多くなんともお恥ずかしくはあれど、ほぼひと月以上かかって、お休みの日に体調を整え集中してなんとか終えることができた・ドレスデンへの旅。読み返すともっと書いておきたいことが、次々に起こってくるのだが、その時に即興的に浮かんできた、ライブブログ文章なので、そのままでいい、と思う。

書き終えて思うことは、あらためて体力気力、それにやはりこれが一番肝心なことなのだが、素直に、無心になれる時間がないと、つたなくはあれ、文章は紡げないということである。でも、今回は何としても書いておきたいという、内なる思いが強く、正直書き終えてほっとしている。

人間同時に二つのことは、とくに私のような単細胞はなかなかにできない。頭のスイッチを切り替えることが、なかなかに難しいのである。仕事をしながら、日々なにがしかのことを抱えながら、でも個人にとっての大切なことを、きちんと整理しておくことは、やはり肝要なことではないかと思う。

人間は忘れゆく生き物である。だからこそ新鮮に生きられる、とも思う。だが、瞬間どうしても忘れたくはないというような切実な出来事は、書いておくにこしたことはないと、最近歳を重ねるに従って思うようになってきつつある。

人生には締め切りがあるということ、このことだけは元気なあいだ、考えることができる間は、夢夢忘れてはならないことだと思う。だから、今日も私は書いているのかもしれない。若い時にはそんなことは考えもしなかったが、若い時には若い時にしかできないことを、やればいいのだから。

実は今朝眼が覚めて、夜明け前の暗い中、所々昨夜の雨で水たまりができている運動公園にゆき、散歩がてら軽い運動をして、もどって残り湯を沸かし、さっぱりしてから書き始めたのだが、体調がいい。気分がいい、前向きになれる。

これまで、ブログは起きて間もない時間に書くことがほとんどだったのだが、それを止め、休日のブログは朝の散歩の後に書くことにした。休日の朝をメインに週に2,3回貝つづることができたら、と考える。平日は畑仕事と、わずかな読書タイムでほとんどが過ぎてゆくので、そうは書けない。

これからは、書くための体力の維持が(なにをするにおいてもなのだが)、ことのほか重要、との自覚が私の中に、目覚めてきた。特にドレスデンから帰ってきてからは。食生活も含めて、何かを変えたいという、にわかな思いが強まってきたのである。

若い時には体力に無自覚だが、この歳になると足が上がらなくなったり、筋力の衰えなんかをあちらこちら自覚するようになる。だから、自覚があるうちに、なんとか衰えゆく、我が肉体を少しでも刺激し、そのための工夫に対してより自覚を深めないと、といわば考え始めたのである。

でもつらいことはしたくはないし、無理もしたくはないので、愉しい範囲での無理を、いわば心懸ける、といったたぐいの努力を自分に課すことにした。努力ということをほとんどしない人生を自分は歩んできたし、今更できないことは承知しているので、遊ぶ程度の。

遊ぶということが、人間にとって最も大切なことだという認識が私にはある。自分が遊ぶためには少々のおカネが必要、だから、知恵を絞る。私の旅は最低限のお金がいる。だが、旅をしない時、私が遊ぶのにはほとん度お金が不要である。

古いぼろい服を着てても、清潔に洗濯してあれば、、十分にトレーニングできるし、普段の暮らしは、次の旅への愉しい節約ライフでもある。目的があれば、日々の暮らしが、必然的に充実してくる。工夫を凝らすことで、脳のシナプスも活性化するようなライフうスタイルを、心懸けたい。

つつましやかに暮らしながら、時折ちょっぴりの自分らしいぜいたくを実行する。人と比較しない、しえない、なぜなら人は、それぞれ異なる固有の個体だからである。参考にはなっても(しても)、自分はあくまでも自分でしかない、自分というくびきからは逃れようもない。

だから私は還暦退職を機に、可能な限りのあらゆるリセットをこの数年遅々と進めている、つもり(あまりはかどってはいませんが)なのだが、娘が嫁いだことでなにやら、ゆるやかな自覚的変化がより訪れてきたように思える。


























2014-10-26

ドレスデンへの旅・8・【最終回】

プラハの空港を発つのは午後4時半だったので、ホテルで目覚めてすぐ朝のホテル界隈を3人で散歩した。最高の場所にホテルは位置していた。。昨夜の小雨は上がっていて抜けるような青空。娘がおいしいコーヒーを飲みたいというので、すぐ近くのプラハのスターバックスに入った。

ケバい看板がなく、石畳の街並みにまったく違和感なく、溶け込んでるお店づくりで、その点はまったく感心した。かなり高めの値段なのだが、それなりにはやっていたのは、やはり観光客が多いからなのだろう。

早朝はさすがに人気も少なく、昨夜はあんなににぎわっていた、レストランやお土産売りのお店なんかはまだ閉まっていて、のんびりと散策するにはもってこいだった。娘は一足早くホテルに戻ったが、ひんやり秋の気温が心地いい。私と妻は中心市街をそぞろ歩いた。

ホテルの小窓から、人が昇っている姿が望めた、きっと有名な時計台がある塔が、9時からエレベーターが動き登れたので、中心部の高いところから、これもプラハの思い出にと、二人で上った。もちろん入場料がいる。

上って本当によかった。朝日に照らされた、快晴の市の中心部からの旧市街の眺めは、今も眼底に焼き付いている。オレンジの色の屋根また屋根が、なんとも見事にひしめいていて、カレル橋や昨日散策した、教会も対岸に見える。

塔は四角形で、360度歩け、すべて見渡せる。遠くにしかビルディングが見えない。見知らぬ若いアジア系の女性に写真を撮ってくださいと頼まれたので、もちろん撮ってあげたのだが、欧米系始め中国や台湾、韓国、日本の観光客が多い。

わずかの滞在だったが、あらためてプラハという街の人気がうかがえた、その人気の秘密は何かにわかに知りたくなったが、ドレスデンにしかないなにか、プラハにしかない何か、ベルリンにしかない何か、がきっと旅人をひきつけるのだろう。

妻とヨーロッパの街を二人して歩いたのは、34歳の新婚旅行以来、もちろん東欧の街を旅したのは初めて、繰り返すが娘が異国の男性と結ばれなかったら、おそらくこのような番外の旅は我々には訪れなかったかもしれない。

たんなる観光の旅はできたかもしれないが、今回のような意外性の連続の旅は、まず不可能ではないかと思う。人知の及ばぬ、何かのお導きというしかない、生涯にそうは何度も訪れない類の旅だというしかない。

話は変わるが、父は晩年、散々苦労をかけた母と、国内外どこへゆくにも二人で出かけた。昔気質丸出しの、無骨極まりない、大正男児そのものというしかないくらい、生き方が直線的な父だったが、最近感じるのはその父に自分が限りなく近づきつつあるという、ちょっと困ったなあ、というほろ苦い認識である。

だがしかし、あの両親のDNAを色濃く受け継ぎ、この世に生を受け、その後の時代環境の中で育まれた厄介な自分の性格を引きずりながら、生き恥さらして今後も生きるほかはないことは、自明の理なれど、今回の思わぬ旅は、晩年のこれからをいかに生きてゆくかの、大きなターニングポイントの旅であったことは、間違いない。

だからなのかもしれない、ドレスデンへの旅を、このようなかたちで綴りたくなるなんてことは考えもしなかったが、とにもかくにも、なんとか8回書くことができたことは、何とはなしにうれしい。

最後、プラハの塔から眺めた時、今回の旅はこれで終わりという感慨がにわかにわき起こってきた。頭の切り替えができ日本に帰るぞと思った。最後のクローネの小銭で、思い出に数枚の絵ハガキを買った。その塔の絵ハガキは妻が我が家の階段に飾った、懐かしい。

話は戻り、古い螺旋階段ホテルに戻って荷造りしチェックアウト、苦労して何とかたどり着いたこのホテルのことは忘れない。チャンスがあったら次回は一階に泊まってみたい。ワゴンタクシーでほかの客と乗り合わせ、一週間前着いたプラハの空港に余裕を持って向かった。

空港では待ち時間がたっぷり合ったので、この一週間の印象的な出来事をメモしているうちに、帰国のフライトタイムとなった。プラハの空港は広々としていて清潔で、余計なお店が少なくさっぱりしていて落ち着けたた。

入管検査では、入国も出国も一切手荷持元検査がなかったことにも驚いた。ソウル・インチョンとのあまりの違い。時代は変わるのだということの認識を新たにした。

行きはインチョンから大韓空港でプラハへ。帰りはチェコの航空会社でインチョンに向かった。インチョンから関西空港へ、旅は終わった。


2014-10-22

ドレスデンへの旅・7

いよいよ帰国する朝を迎えた。昨日の結婚式の余韻が続いているが、頭を切り替え、帰国の荷造り、冷蔵庫の中の食べ物をすべて確認し、食べきれないものは、プラハまでの旅の道中で食べることにした。(パンやハムやチーズなど)

昨夜はとても遅かったはずの怜君と娘が、8時にはやってきて共に朝食、滞りなく無事に式を終えほっとしている様子がうかがえた。私たちも、眼に見えない何か大きな力に支えられて、この二人の門出をしっかりと見届けられた安ど感で、ただひたすらほっとした。娘たちは我々よりも2日長く滞在するので帰国は3人での旅。

午前11時、キッチンや部屋を片付け、一週間過ごしいたホテルをチェックアウト。ペーターさんとアンケさんが見送りに来てくれる。ペーターさんとは、そこでお別れ、ドレスデンの地図をくださった(帰国後妻が階段の壁ににはった)。寡黙だが、素敵なお父さん、この人とは友達になれる、日本での再会を約束した。

ドレスデンンの駅までは、アンケさんが車でおくってくれた。駅までは20分くらい、アンケさんはドイツ語しか話せないので、車中沈黙が続いたが、表情やしぐさで思いが伝わってきた。駅で最後のお別れ、アンケさんの目がこころなしか潤んでいた。

私たちは、とてもアンケさんに好感をもった。余計なことではあったが、親友K氏に頂いた気に入っていたナウいジャケットを持参していたので、それを息子さんに急にあげたくなった。彼の15歳の今の体格なら、私が着るよりも、きっと彼がきる方が似合うと思ったのだ。アンケさんは、微笑みながら受取ってくれた。

午後1時06分発のハンガリー・ブタペスト行き(プラハは途中である)に乗って、私たちはプラハに向かった。汽車はなんと、ひたすらエルベ川をさかのぼってプラハまで走る。ドレスデンに着いた日以外は、すべてお天気に恵まれた今回の旅、プラハまでの2時間11分、車窓からの眺めを存分に満喫しながら、昨日の結婚式の余韻に私は浸った。

妻と娘はさすがに疲れているのだろう、すやすやと寝入っていた。私は冷蔵庫に余っていたパンやチーズやハムを取り出し、ビールを飲んだ。ドイツのビールは、安くてしかもうまい。つまみのチーズやハムがこれまた最高。そうこうしているうちにあっという間に汽車はプラハに着いた。

怜君が、せっかくプラハ経由なのだから、最後にプラハに一泊するようにホテルを予約してくれていた。おんぶにだっこの今回の旅。すべて、怜君がこまやかにあれやこれやの気遣いを我々に対してしてくれていた。

一昔前のように、パスポートのチェックもなく単に移動した感覚だったが、やはりプラハは似てはいるが、異国であった。一日だけの滞在だったので、駅で円をクローネというチェコの通貨に替えた。

両替をしてくれた男性にたずねると、ホテルまでは乗り換えて地下鉄で行けると教えてくれた。タクシーで行けば、両替したお金のほとんどが消えてしまう。考えた末、重い荷物を3人引きずりながらプラハの地下鉄を体感すべく、乗り場を探してクローネの小銭で(券売機)切符を買った。

プラハの地下鉄の料金は時間制で、一時間ごとに料金が異なる。ところ変わればで、面白い。なんとか地下鉄に乗った。さてどこで乗り換えるか、車内の高校生くらいの女の子2人にたずねると、親切に教えてくれた。

驚いたことに、かなり年配の男性が自転車持参で乗り込んでくる、これまた、ところ変わればで、面白い。乗り換える駅に到着、次に乗る地下鉄を、今度は30代の男性に確認すると、これまた親切に教えてくれる。人間困ったら、よく人を見て、あらゆることにすがるのだ。いい意味で旅の恥はかき捨て。

さてなんとか、ホテルのある旧市街中心部の駅に着いた。後で考えるとそこからホテルまでの距離は大したことはないのだが、重い荷物を引きずるのには、でこぼこの石畳は誠に持って負担が大きい、がしかし、何人かの人にこれまた訊ねながら、目指すようやくホテルにたどり着いた。

タクシーに乗るのは簡単だが、好奇心と体力が許す限りは、できる限り五感をフルに動かした方が、記憶が頭ではなく身体に刻まれる。ただ、無謀なことはしないほうがいい。夜だったら、タクシーを使ったと思う。

その時はたいへんなのだが、やはり旅は苦労したほど印象深く脳裏に刻まれる。怜君が予約したホテルは、本当に古い古い中世の建物を改装したなんとも味わいのあるホテルだった。雰囲気はいいのだが、エレベーターがない。

我々の部屋は一番上の屋根裏部屋、向こうの数え方では3階に当たるが、0階があるので、3階と言っても4回、その迷路のような曲がりくねった階段を重い荷物を運び上げるのは、いささかの難行苦行であった。

最後、無理やり部屋にした屋根裏に通じる、ヒト一人がようやく歩ける細い階段をおもい荷物を抱えてすりぬけるのは、今思い出しても二度とはしたくないくらいだ。

だがその細い階段をを登りきると、広い空間にベッドが3つゆったりと置かれていて、3星ホテルの意味が納得できた。重い荷物から解放され、ともあれほっとし、すぐに小窓から望めると、プラハの街並みの一部が、かすかに望めた。うーむ、古い遺産的建物が密集している。

午後五時ころ、少し休憩した後せっかくのプラハ、妻と私と娘の3人で歩いて、かの有名なカレル橋を目指した。ホテルの人があるいて行けるというので、いつものように、曲がりくねった、ここは中世そのまま、時の流れにが止まったままというか、違う時代に彷徨いこんだかのような、石畳の路地を歩いた。

最短距離を歩けば15分もかからないところに、カレル橋はあったが、我々はその倍くらいの時間を費やして念願の橋にたどり着いた。陽はまだ高く、秋を迎えたプラハ、カレル橋周辺は観光客ごったがえしていた。人の波で穏やかな気分で橋を渡るなんてとんでもない。

スリに気をつけて、バッグをしっかり持ちながらの記念撮影、早々に橋を渡り、対岸の小高い教会を目指して、3人で気の赴くままに、ぶらぶら散策。次女は2年前の冬、怜君たちと来たことがあるので、盛んにここは来たことがある、来たことがあると、口にしていた。

それにしても、妻も娘もよく歩いた。3人でカレル橋周辺を歩いた記憶は、おそらく次女の中では、長きにわたって記憶に残るだろう。特におそらく有名な教会なのだろう、そこに通じる長い石畳の階段はさすがに疲れた。(娘がのどが渇き、その場で絞って飲ませてくれるオレンジジュースで、なんとかしのいだことも、今書いていて思い出した)

教会にたどり着いた。そこからの、プラハの街の眺めは、これまた格別というほかなかった。やすんでは眺めた。ホテルへの帰り路は、カレル橋ではなく、観光客のいない普通の橋を歩くことにした。

橋の手前のベンチで休んでいると、何やら急に小雨が降ってきたので、夕闇せまるなか急ぎ足でホテルに向かう。3人で相談し、夕飯はホテルでしようということになり、ホテルの近くのケバブとピザの店でテイクアウト、小さな雑貨屋で、飲み物も調達した。

ホテルで、つつましく夕飯をすませた後、シャワーをを浴びさっぱりして、今度は私と妻の二人きりで、夜のカレル橋を眺めに出かけた。手前の橋から、美しくライトアップされたカレル橋を二人して眺めた。

わずかな滞在のプラハであったが、異邦人の私にとってはまったく別世界、映画でみた素朴な中世が丸ごと残っている古都という印象、(ローマなんかとはまるで違う)華美ではなく、堅牢な中世の建物が、カレル橋をはさん両岸にひしめき合っている。ドレスデンと似ているが、路が狭くまるで迷路のような都。(無知な私は、プラハの歴史を俄然知りたくなりました)

夜の都はことのほか闇が濃く、路地裏を一人で歩くのは、あまりにも明るい日本の都市から来るとちょっと怖い。厳しい夜の長い冬を想像すると、明るい日差しの宮崎育ちの私にはいささか暗すぎる。小雨のなか、街灯やレストランからこぼれるかすかな明かりで黒く光る石畳は、時折不気味に感じるほどだった。

大国に絶えず脅かされながら、苦難の歴史を抱えた多くの東欧諸国の中の一つ、チェコ、ひと昔前だったらゆくことさえ叶わなかった邦なのだ。そこに偶然立っている我が身が、何か名状しがたい感覚に襲われた。

ホテルに戻って、ベッドに横になっても何か落ち着かず、一人では広い屋根裏部屋はちょっと怖い。日本の本でもないと過ごせない。またいつの日にか是非プラハを訪れたい。その時まで、ほんのわずかであれ、東欧の歴史を学んでおきたい。













2014-10-19

ドレスデンへの旅・6・【結婚式当日に思ったこと】

今日は10月18日、ちょうど娘の結婚式から一月がたったが、未だあの日の出来事は、鮮やかに記憶の中で蘇る。

式は公的機関の、村の役所が持つ古い由緒ある建物で、つつましやかに行われた。参加者は、親族と友人のみで厳粛に進み行われた。

娘のドレスアップした、花嫁姿を見たときには率直に美しいと思った、友人のチェンバロ奏者、新谷さんのCDの曲で入場してきた二人を見たときには、ジーン胸が熱くなった。

式進行をつかさどる女性が美しいドイツ語で語る言葉の数々を、怜君の大学時代の友人のT氏が見事に通訳してくれるので、すべてが理解できたし、簡素で充実この上ない儀式を私も妻もしっかりと眼に焼き付けた。

式を終え外に出ると、この地方での結婚式には欠かせない、手なずけられた白いハト(7羽くらい)が花嫁花婿を祝福する、いわば幸せの伝道師的芸の名人が待機していた。思いもかけぬ余興を全員で楽しんだ後、近くのカフェレストランに移動して、かるいランチをしながら、初めて会う方達とご挨拶款談。通訳のT氏がついていてくれたので、、まったく問題なく嬉しく。そして助かった。

午後2時半、場所を移動。エルベ川が眼の前の素敵なレストランで総勢60名に及ぶ結婚披露パーティが始まった。、それはそれは、用意周到に準備され、楽しく構成演出されたパーティで、あらためて、怜君の人間力が多面的に発揮された見事なパーティでした。

パーティは、それぞれの両親のお祝いの言葉で粛々と始まり、(私もスピーチをしました)参加者全員の人柄がわかるゲーム、自由に席を行き来しながらの、ケーキのティータイム款談、夕方1時間半のエルベ川散策オフタイム。

このオフタイムが、ことのほか印象深く残っています。おのおのビールやワインを抱えて、初めて会う方達と、記念写真を撮ったり、言葉を交わしたのですが、私は最年長の怜君のおばあさんと款談しました。

若いころからの、たいへんな時代を生きたお話に聞き入りました。ドレスデンの最も激しい空爆が、2月の13日だったのを聴いたときには思わず驚きました。私の誕生日だったからです。ますます、私はドレスデンに、何やらわからない近しさを覚えました。通訳はすべてT氏がしてくれました。

話は余談ですが、3月10日、母の命日ですが、東京大空襲の日です。今もシリアや、イラクや、パレスチナやアフガニスタンで、空爆が行われ、ややもすると遠い異国の出来事と、無関心になりがちですが、落とす側と、落とされる側では、天国と地獄です。(最低の世界の非常時に耳を澄ます想像力は、元気な間は見失いたくはないものです)

話を戻して、それを終えてから、ディナータイム、子供たちへのプレゼントタイム、そしてケーキカットへと続き、ごご10時過ぎからは、多国籍参加者の若者たちで選抜された奇抜な椅子取りゲーム。

司会進行、曲の選択は弟のマーカスが担当、兄貴のお祝いの式を存分に盛り上げていました。そしていよいよは、最後は子供、(この子供たちが日本に来たら、我が家にホームステイしてもらいます)老いも若きも入り乱れてのダンスタイムへと、時は流れてゆきました。

夜も更けたパーティ会場には、外に焚火が灯されていました。私は踊らずに、しばし火のそばで夢のようなパーティ時間の余韻にひたりながら、娘が異国の男性と結ばれることで、このような未知の時間が流れることの不思議さに思いをはせました。

午前〇時過ぎ、パーティはまだ続いていましたが、お母さんやお父さんたちとハグして別れ、椎谷の曲がりくねったドレスデンの街を、タクシーでホテルに向かいました。

娘が生まれて25年の歳月。私の人生再出発は、37歳、娘の誕生とともに始まりました。そして今娘とのいい意味でのお別れの日がやってきたのです。私は焚火を眺めながら、いよいよもって自律した晩年を、元気な間は深く意識して生きることに、決めました。

ドレスデンへの旅は、いくらつたなくても何らかの形で、今の思いを記しておかねばという想いが書かせています。この結婚式は、怜君と娘が私たち夫婦にプレゼントしてくれた旅です。この場を借りて、娘が選んだ男性、そして日本名まで名乗ってくれる日高怜君に心から、義理の父親として感謝します。



2014-10-12

ドレスデンへの旅・5

9月17日(水)もまた、忘れられない一日となった。娘の結婚式への旅は、久方ぶりの遠くへの旅であり、一日一日の密度が、濃かったのと、初めての旧社会主義国圏への旅でもあったがために、すべてが新鮮でおりおりの記憶の映像が記憶にくっきりと残っている。

この日私と妻は、ベルリンへ日帰りで出かけることが叶った。1989年はベルリンの壁が壊れ、娘が生まれた年である。第二次大戦後同じ民族が西側と、東側に分断されていた。東西の冷戦、その象徴的な都市、ベルリン。映画でも幾度も描かれた未だ伝説の都市。

訳知りなことを書くつもりは全然ない。1952年生まれの私には、ようやくにして、この歳になって、両親たちが生きてきた時代、祖父母が生きてきた時代が、どのような時代であったのかを、きわめて個人的に、知りたいという欲求が歳とともに高まってきている。

おりしも娘たちが、結ばれる今年は第一次大戦から100年、歴史を学ぶ、現代史を一庶民の側から学ぶということの重要性が、私の中で日増しに強くなってきているのである。

さてその日、メモを見ると7時50分のバスでホテルをホテルを出発、怜君と娘が中央駅まで一緒に来てくれた。両替ののち、怜君が自動券売機で往復の自由席券を買ってくれ、自由席に座るところまで見届けてくれた。

往復、160ユーロ(1ユーロ150円くらい)。ドレスでデンからベルリンまで約2時間10分。9時05分発で11時15分に着いた。この間、車窓からの異国の丘陵風景に、飽かず私はただただ見入った。意外に松林なんかもたくさんあった。

はるか遠くや、あちらこちらに風力発電のプロペラの回っていた。脱原子力発電に舵を切ったドイツ、数千か所も水力発電があるという。異国では、完全に意識が解放される。ことさらにゆっくりと物事が考えられる。だから、青春時代から今に至るも私は時折、私は日本を離れる。

ベルリンに着いた私たちは、とにかく頑張ればブランデンブルク門まで歩いてゆけそうな距離だということが分かったので、地図のない旅、当たりをつけ歩き始めた。歩いたからこそ、これを書いている今も記憶がよみがえってくる。

歩くけるうちは、ひたすら歩く、これが私にとっての旅の醍醐味と言っても過言ではない。歩いていると、昔のガイドブックなどがない時代の旅人の気分に何とはなしにひたれるのである。限りなく荷物は少なく、手ブラで歩く。

情報は、第一次情報、自分で見つける。気配を読み、人から直接得る。お昼、ベルリンを象徴するブランデンブルク門にたどり着いた。観光客が引きも切らない。我々もその一人だ。壁が壊れて25年、当たり前だがおそらく旧東側のベルリンは大変貌を遂げたのだろう、周辺は、旧西ドイツ的なモダ―ンな都市にに今も再開発の流れが、止まないような印象を持った。

ブランデンブルク門からポツダム広場は、そう遠くはない。最もゆきたかったのはポツダム広場の壁のあった場所だったので、向かう途中の中華の店でランチ。チャーハンと肉野菜炒めライスとビールで、21ユーロ。(量がとても多く食べきれなかったので、テイクアウト、夜ホテルで食べた)

食後我々は、ポツダム広場の交差点の、壁の跡に立った。壁には無数の落書きがしてあり、迷ったがボールペンで私は日付を記した。ベルリン駅に降り立ったときにモダンな都市に変貌しているという第一印象があったが、ポツダム広場周辺も跡だけを、象徴として残しいているにすぎないといった風情。再び激変している印象。

開発という、全世界を席巻するお化けのような資本が、ベルリンにも吹き荒れているというのが率直な感慨。こうして歴史は塗り替えられてゆくのかも知れない。

もうすぐに、ドレスデンに帰ってもよかったのだが、せっかくなので標識なんかを見ながら今しばらく散策していると、ベルリンフィルの本拠地や予期しなかったゆきたかった美術館に当たったので、そこでしばらく時間を過ごした。

ものすごい数の宗教画に、気圧されてしまった。迷路に迷い込んだというしかないくらいの部屋数があって、キリスト教素養のない私には、なんとも頭が痛くなるくらいの質量分量。ただ、フェルメールの作品があることは、入管前確認していたので何とかお目当ての作品だけは見ることが叶った。

美術館を出てもしばし、ゆきあたりばったり歩いた。運河に水上船を見かけたのでそれで駅に戻ろうと思ったのだが、船着き場が見つからず、さすがにすっかり疲れ果て、結局タクシーで駅に。【10ユーロ)

予定より、早い汽車でドレスデンへ。車中販売でビールを買い、飲みながら夕暮れまじかの車窓からの景色を愉しいんでいると、いきなりエルベ川が眼に飛び込んできた。午後7時過ぎにホームに着いた。

駅構内の、スーパーで食料品を買い、66番と、86番のバスを乗り継いでホテルに帰った。バスにも少し慣れた。ホテルで、簡単に夕食を済ませたころ、いよいよ明日は結婚式の怜君と娘がやってきてしばし雑談。

式前夜、二人はこころなしか興奮を隠せないようだった。妻と次女もしかり。私は明日着る服の確認を済ませ、早々にベッドに横になった。

2014-10-06

ドレスデンへの旅・4

9月14日(火)は、エルベ川という大河が、私の脳裏にはっきりと刻まれた日となった。ドレスデンはこの河畔に栄えた、そしていまもこの川とともにある街なのである。

怜君がドレスデンに行ったら、是非ともに案内したいところがあると、かねがね私たちに話をしていて、写真も見せてもらったところがあるのだが、そこがエルベ川の上流にあるところだとは、知らなかった。

この日も快晴、全員ハイキングにゆく格好、そのために妻は歩きやすい靴を昨日買ってそれを履いている。いい年を忘れ、遠足気分で何とはなしに最高にうれしい。8時前にホテルを出て、ちょっぴりなれた86番で駅に向かう。

駅の近くの、個人でやっている小さなパン屋さんに怜君が連れて行ってくれる。そこで、いろんなおいしいパンを買い汽車が来る前、ホームで、みんなで食べる。その日の朝焼いたばかりのパンは格別にうまい。

ヒマワリの種がパンの表面を覆っている、まず日本では売っていないパンを私は求め、食べ始めたのだが、なんともはや、噛みごたえがあって、しっくはっくしながら食べたが、おそらくもっと歳を重ねたら、歯が立たないかもしれないと思いながら、慎重に噛み砕いた。

やはり挑戦してみる価値のあるパンの味であった。ゆっくりゆっくりかみ続けているとなんとも言えない味が口の中に広がってうまい。ただただ、食べるのに時間がかかるパンだった。(又必ずドレスデンにやってきて、もう一度このパンにあやかりたい,そのためには丈夫な歯をキープしなくては)

食べ終えるころ、お父さんの、ピーターさんと伴侶のアンケさんも一緒にゆくためにやってきて、ともあれ総勢7人車窓の人に。郊外から30分くらい、汽車はエルベ川を上流に向かって、沿って走る。この車窓からの景色が素晴らしかった。

川沿いから見える、人々の暮らすカラフルな家のたたずまいが、まるで日本の家々とは異なるので、われわれの異国情緒をいやがうえにもかきたてるのである。またもや歳を忘れ、私は小学生のように車窓からの眺めに魅入ってしまった。

そうこうするうちに田舎の小さな駅に着いて、歩いて船着き場へ。そこから渡し船で対岸に渡る。こんなところに観光に来ている日本人は我々くらいだろうと思っていたら、30歳くらいの男性が休暇で来ていて驚いた。分かる人にはわかるのだ。

船が出る前、その彼に我々全員の写真を撮ってもらった。ドレスデンの幼稚園の子供たちも先生に引率されてきていて、朝の陽光に照らされているエルベ川をともに船で渡ったのだが、なんだか今書いていても、おとぎ話のような光景だった。

ドレスデンでも有数の観光地なのだろう、平日の朝早くなのにすでに観光客が訪れていた。汽車から見えた、川沿いのそそり立つ奇岩の岸壁の頂上目指してわれわれは、怜君を先頭にゆっくりと歩き始めた。対岸のレストランや、お土産物売りショップはまだしまっていた)。

歩き始めて、10分もしないうちに森のなかへと山路は続き、手ごろな散策が楽しめる最高の森林浴のコースが、きちんと手入れされていた。ドレスデンからわずかな距離のところに、こんなにも深い森があるとは、思いもしなかった。

時間が経つにつれ、次々に軽装でや山歩きを楽しむ、老若男女が増えてきた。我々7人は怜君をガイドに、途中休み休み進みながら、高くなるにつれ眼下に広がるエルベ川の両岸に広がるドレスデンの景観を存分に眼に焼き付けた。

怜君がロッククライミングを何度もやったという岩場も知らされた。10代のときから、何度も何度もここに来たという。時候のいい時だけではなく、冬場もきて遊んだという。昨年のクリスマスは、雪の中娘や友人たちとも来たというから、きっと怜君にとっては、私にとっての故郷の山のような、大切な精神の居場所なのだろう。

妻が思ったよりも元気に山歩きを楽しんでいたのが嬉しかった。普段から愛犬メルとの散歩での効果が出ているとおもった。怜君は頂上で昼食の予定でいたのだが、思ったよりも早く着いたので、飲み物とアンケさんが持参した、ソーセージや野菜(小さなキューリを丸かじり、これがうまい)を頂きながら、ゆっくりと休息タイム。

私とピーターさんと怜君はもちろんビールで乾杯。頂上の山荘売店はは、もちろん山小屋値段なので高いが、その味は格別だった。じっとしていると肌寒くなるので早々に下山する。

下りは反対側を下る。のぼりとは、又まったく雰囲気が変わりもっと樹木が増え、下るに従って沢の水の流れが見えてきて、再び途中の山荘でトイレタイム休憩。

ここには面白い仕掛けがしてあって、水をせき止めあふれそうになると、滝のように流すのだが、その時間が来ると、その臨時の滝を背景に、観光客が一斉に写真を撮るといった按配。もちろ我々も撮った。怜君が記念の絵葉書を買ってくれた。

ピーターさんと私は気分がいいのでここでもビールを飲んだ。ピーターさんと私は男同士、多くを語らずとも、ビールで会話ができるのである。おだやか、というしかない、閑雅なひとときが、ドレスデンの森の中で流れ、新しき出逢いの関係性がたおやかに深まってゆく。

山をかなり下りてきたところに、突然小さな湖が現れボートを楽しんでいる人たちが見えた。悠然と大きなニジマスが泳いでいる。お昼、ぐるっと一周回る形での、我々の奇岩をめぐる変化に富んだ山歩きを、全員無事に終えることができた。

眼の前の、エルベ川を望みながら、ゆっくりと贅沢な気分のランチ。それぞれ好きなものを頼み、わけあってたべた。ペーターさんアンケさんとすっかり打ち解けてゆくのが、自分のなかでよくわかった。

午後は、そこからドレスデンまでの川下りを怜君が計画していた。昼食後、3時発の船の時間まで少し間があったので、川岸の緑の上でしばし横になって骨休めタイムを、川風と陽を浴びながら過ごした。至福のひととき。

時間が来て船に乗り込むとすでに満員、川下りの人気に驚く。仕方なく船のデッキに腰をおろして、いよいよエルベ川の川下りが始まった。

途中何回か止まり、そのたびに人々が乗船下船を繰り返す。一時間もすると、椅子に座ってゆっくりと川下りを楽しめた。対岸の路を自転車でゆきかう人たち。手漕ぎボートの練習をする人たち、カヌーの練習をする女の子のチーム。行き交う大小に船。

乗馬を楽しむ人たち、上半身裸で日光浴を楽しむ人、犬を泳がせる人、たくさんの羊たちの群れ。川沿いに緑地が豊かに広がるなか、地に足のついた人々の生活が望める。

時候が良く、緑一色といった印象がずっと続く、すっかり私はドレスデンが気に入ってしまった。ドレスデンの人々がこよなく、エルベ川に親しんでいるのがよくわかった。

川から離れた少し小高い所にに棲んでいる家々も点在している、生活には多々不便なことも多いだろうと思うのだが、そこは文化の違い、考え方の違い。不便さを快適に作り替える大人の余裕のようなものを、私はドレスデンの人たちの暮らしから、わずかな時間の中で感じ取った。

このようなかたちでの約2時間の船旅を、生まれて初めて私は体験したが、このような旅をアレンジしてくれた怜君に、私は心から感謝した。

夕食は、船着き場から歩いてすぐの、その昔ドイツを代表する文学者の一人、シラーが住んでいたことがあるという、由緒ある古いカフェレストランにつれてゆかれた。夕食には少し早かったので、怜君たちは、ちょっとものを包む色紙を買いにゆき、その間は私と妻とペーターさんとアンケさんの4人で彼らの帰りを待った。

もちろん、私とペーターさんはビールを飲みながら。4人で、片言の言葉でやり取りしながらなんとか、意思の疎通を図る。窮すれば通ずの例え通り、面白おかしく過ごしていると、学校を終えたリヒャルト君15歳もやってきたし、怜君たちも帰ってきて、再びにぎやかに全員での夕食タイムとなった。

それぞれまた、思い思いのものを頼んだ。私はポテトのグラタン風のモノを、これがおいしかった。怜君がチーズのもり合わせを頼んだのだが、日本で頼んだらすっごく高くつくのだろうがここはドレスデン、当たり前そんなに高くない。頼んだものすべて、全員で平らげた。幸せな時間というしかなかった。

一日の旅の終わりの、エルベ川のそばのレストランでの新しい家族との夕食は、事のほかの感慨を私の中にもたらした。私の中に、まるで夢のような一日を過ごさせてもらった感動が広がった。

お昼代は、私たちが支払い。船賃と夜の夕食代は、ペーターさんがなんと言っても支払ってくださった。甘えることにした、ドイツ男子なのだ。

日がとっぷりと暮れ、異国の石畳の街を少し歩きバス停へ、家路へのバスに乗り途中で下車。ぺターさん家族とハグして(ぎこちなかったハグにもすっかり慣れた)別れ、そこからはいつもの86番でホテルへ向かった。

シャワーを浴び、白ワインを飲みながら、この日の出来事を反芻した。睡魔がやってきてベッドで横になり、漆黒の静けさの中で家族とは何かと考えているうちに、深い眠りに落ちた。

(帰国して2週間しかたたないが、怜君によると、すでにペーターさんアンケさんが、来年5月日本に来たいと言っているそうだ。こうして、予期せぬ愉しいことが起こるのは、きっとあの日の山歩きとエルベ川下りでの愉しい思い出が、何か後押ししてくれているのではないかという気がする)








































































































2014-10-05

ドレスデンへの旅・3

9月15日(月)、ドレスデン3日目、夜中何回か目覚め六時半に起きたとたとメモに在る。この日は初めての快晴、ほんの少しドレスデンにも慣れ、涼やかな気候が、なんとも肌に気持ちがいい。

この日、怜君たちは式の準備で忙しく別行動、我々3人は自力で市内観光へと繰り出した。お恥ずかしいくらい何の予備知識もなく、ただ両替をして少し市内を散策しようよ、くらいの軽い気もちでただ出かけただけなのである。

式に参加するための旅あり、終日我々だけの時間が持てるのどうかさえ分からなかったし、だいたい旅には、あまり余計な予備知識は持たずにゆく方なので、いつもの通りのゆきあたりばったりの行動。

出かけるの当たっては、用意周到な怜君が、事前に一日乗り放題の、バスとトラム(市内電車)のチケットを買ってくれていた。それに乗って(ホテルの前にバス停がある)86番のバスで8時過ぎホテルを出る。

途中、バスの降りる場所を間違えたが、なんとか歩いて、トラムに乗り換え、トラムの中で、ちょっと勇気がいったが、少し顔の固い30代の男性に、ドレスデンの駅にゆきたい旨なんとか伝えると、あにはからんやとても親切で、乗り換えのトラムまできちんと教えてくれた。旅はハプニング。

いい意味で旅の恥はかき捨てである。何事もアクションを起こさないと始まらない。ただきちんと訊くべく、判断する相手を選ぶには何事にも、試練修行が必要であることはもちろんである。

ドイツ人は、一見気難しく感じるがそんなことはない、いかめしそうに見えた人が、柔和な顔になるのを見るのは、実に楽しい。向こうだってそこはかなく、異邦人に関心を持っていたりする場合もなくはないからだ。

ところでバスの中には、自転車も持ち込めるし、歩道と自転車道が厳しく区別されていて、歩道への自転車の侵入は罰せられると聞いた。人間優先社会である。

さて、駅に着いたのが9時ころ、我々は朝食がまだだったので、日本ではほとんどゆかないマクドナルドで軽くすませ(日本でのイメージとは違って、街の景観を壊さないような店舗になっていた)、ドレスデン中央駅でユーロに両替。

両替率は、手数料を取られるので分が良くない。次回からは日本で事前に両替してゆくことに決めた。何事も経験することによってしかわからないことが、旅の授業料である。特に未知の国を旅する場合は。非日常なのだから、日常の金銭感覚はしばし忘れて旅を楽しむことが肝要。

旅番組なんかでは、いいところや美しいところしかやらないので、以前も書いた気がするが、若いうちの未知の国への旅を、とくに私はこれからの若い方には薦めたい。若い時間は二度と来ないのだから。経験という宝を体に詰め込んでほしい、お金は取り戻せる。

ちょっぴり、懐に余裕のできた我々は、立派な駅(ヨーロッパの駅が私は大好きである、映画の舞台になるのもうなずける)からおもむろに旧市街の方角に向かって、人にたずねながら歩き始めた。トラムでゆこうかとも思ったのだが、意外や娘が歩きたいというのでそういうことに。

空間がたっぷり、古都にふさわしい落ち着いた街並みに、あの未曾有の爆撃から70年、ドレスデンの町並みはかっての面影を見事に取り戻していた、すごい執念と誇り。

30分近く歩くと、教会をはじめ、復元された広場、王宮後などが次々と我々の眼前に現れてきて、すっかり旅人に変身、あまりの普段の暮らしの街との違いに、気分は異次元に。(最後のプラハで再びこのような気分になった)

旧市街は、秋の訪れとともに観光客でにぎわっていた。美術館にゆこうということいなり、なんとか美術館にたどり着いたのだが、あいにくの休館日で残念だった。書いているといろんなことが思いい出される。

歩く速度で視界が変化するので、健康で歩けるということはまさに旅の醍醐味、贅沢。世界遺産ではなく、自分遺産。妻も娘もあの固い石畳を良く歩いたと思う。疲れて私と妻は、広場のカフェで生ビールを飲んでやすんだりしながら新婚旅行以来の、ヨーロッパの石畳の街のドレスデンを満喫した。

さすがに歩き疲れお腹がすいた。肉は食べたくないということで、探し回った挙句、結局手軽なパスタの店に入った。が、これが期待外れ、お腹が空いていたし、お金も払ったので、私はなんとか平らげたが、妻は残した。今も3人での笑える話題になるほどにまずかったが、今は良き思い出。

パックのパスタを電子レンジで温めて出すだけなのだから、あきれる。それでもそこそ客が入っているのだから又あきれる。おまけに外にいる雀が店内のテーブルの上に鎮座していたりするのだから、あきれ果て、世界の多様な真実に首を垂れる。

食後は、気分を変えてショッピングタイム。私と妻と娘では買うものが違うので、待ち合わせ場所を決めて別行動。旧市街に隣接して、建物は落ち着いた大きなビルディングなのだが、なかはモダンなショッピングモールが地下一階地上3階まであったので、そこで2時間近くを過ごした。

私にはドイツで買いたいものが一つあった。それはパーカーの万年筆である。この機を逸したら買うチャンスはないと思ったので、私は広い店内をひたすら万年筆を捜して歩き回ったがこれがどこを探しても万年筆を売っていないのである。

もう半ばあきらめかけていたときに、メガネショップの親切な男性がひょっとしたら、あそこの文房具やさんにはあるかもしれないというので、私はただちにそこに向かった、在った。3つの会社の万年筆が各2本ずつ置いてあり、同じ種類のパーカーが2本のみ鍵のかかったガラスケースに収まっていた。

私としては、たくさんの種類のパーカーの中から選びたかったのだが、それしかないのだからこれも運命と諦め、その2本を買った。ドレスデンで買ったパーカーは旧市街とともに思い出の一品になった。(もう一本は親友K氏への退職祝い)

買い物を終えた妻と娘と落合い早めにトラムで帰る。街での外食に懲りたのと節約も兼ねて、せっかく自炊設備があるのだから、ホテルの近くのスーパーで食料品を買ってホテルで夕食をしようということになり、86番のバスが止まる大きなスーパーで再び買い物。

ワイン、ビールやハムやチーズ紅茶などを滞在中困らない程度に買いこんで部屋の冷蔵庫にしまったのだが、食い物があるというだけで、どこかほっとし気が休まる。

ドイツのスーパーは、い入り口と出口が異なる。いったんは行ったら、レジのある出口から出ないといけないのである。お金は戻るのだが、ショッピングカートもお金がいるし、置き場所が決まっていて、鍵がかかる仕組みになっている。もちろんショッピングバッグ持参である。

たくさん買い物をしてバッグを持っていなかったのが、たまたま段ボールがあったので、それを失敬、着ていたセーターでなんとかくるみ、担いで急場をしのいでホテルまで持ち帰った。

ドイツ人の暮らしは、無駄がなく合理的、学ぶことが随所にある。というわけでドレスデン三日の夕食は、ホテルでシンプルに済ませた。

歩き、見て、食べ、飲み、石畳を走る馬車の音を聴き、肌で、街の匂い、風を感じ、異邦での久方ぶりでの旅の実感が3日目にして、私の中に湧きおこってきた。









2014-10-01

サンナンで働き始めて一年が経ちました。

すっかり日が短くなり、朝と昼の寒暖の差がかなり激しく感じられる。未だ昼の畑はかなりの暑さを感じるのだが、朝夕はこれ以上望めないほどに私には快適な季節である。

灯火親しむ最高の季節が、訪れている。ところで今日は10月1日、私がサンナンで働き始めた日である。だから今日は、朝早く起きて、何かしら綴らずにはいられない。

夢が原退職後2年7カ月。瞬く間に過ぎたというところだが、いよいよ還暦を過ぎてからが何かしら本当にいろいろと味わい深く、ささやかな幸福感に満たされながら、日々を生きられる充実感が展開されていることに、嬉しさを禁じ得ない。

とくにこの一年は、公私ともに忘れられない一年になることは間違いない。話は唐突だが、私の父は80過ぎまで生きたが、よもやもし先のことは全くわからないにもせよ。もし父と同じくらいの時間が、私に与えられていると仮定すると、これから20年近い時間を生きることになる。

40歳の時には、20年後のことは考えもしなかったが、今の私は考える余裕のようなものが、心のどこかに芽生え始めている。娘の結婚式でもいろんなことが、私の脳裏をよぎった。

まさに生きているということは、オーバーだが一瞬一瞬のつながり、一日一日の積み重ね、そのことの重みを、ようやくにして恥ずかしながら、私は実感し始めている。だから自分で書くのも気恥ずかしいのだが、この一年の充実感は、再びオ―バーだが、人生で初めて経験する色合いのものなのである。

のうのうとこんなことを、我がブログで書ける脳天気さも、きっと面の皮が厚くなってきたからだろう。ところで、サンナンの農の仕事を初めてわずか一年だが、なにかが緩やかに私の中で変わり始めている。

農の仕事は、とてつもなく自分の思い通りにはならない。自然の声に耳を澄ます、謙虚な気遣いがないと、如実に結果が畑に現れてくる。それは恐ろしいほどにである。

たかだかたった一年でしかないが、農の仕事に出会ったことは幸運という以外ない。先のことはあらためてわからないのではあるけれど、ともあれ現時点で、畑で働きながら、今をささやかに面白おかしく、生きられることに感謝する。

畑で、日々土と触れながら、身体を動かしながら、老いてゆきながら、時折別次元でシェイクスピアを声にだしながら、読み書きしながら、我が精神の変化を見つめて行ければと、思う。