いよいよ帰国する朝を迎えた。昨日の結婚式の余韻が続いているが、頭を切り替え、帰国の荷造り、冷蔵庫の中の食べ物をすべて確認し、食べきれないものは、プラハまでの旅の道中で食べることにした。(パンやハムやチーズなど)
昨夜はとても遅かったはずの怜君と娘が、8時にはやってきて共に朝食、滞りなく無事に式を終えほっとしている様子がうかがえた。私たちも、眼に見えない何か大きな力に支えられて、この二人の門出をしっかりと見届けられた安ど感で、ただひたすらほっとした。娘たちは我々よりも2日長く滞在するので帰国は3人での旅。
午前11時、キッチンや部屋を片付け、一週間過ごしいたホテルをチェックアウト。ペーターさんとアンケさんが見送りに来てくれる。ペーターさんとは、そこでお別れ、ドレスデンの地図をくださった(帰国後妻が階段の壁ににはった)。寡黙だが、素敵なお父さん、この人とは友達になれる、日本での再会を約束した。
ドレスデンンの駅までは、アンケさんが車でおくってくれた。駅までは20分くらい、アンケさんはドイツ語しか話せないので、車中沈黙が続いたが、表情やしぐさで思いが伝わってきた。駅で最後のお別れ、アンケさんの目がこころなしか潤んでいた。
私たちは、とてもアンケさんに好感をもった。余計なことではあったが、親友K氏に頂いた気に入っていたナウいジャケットを持参していたので、それを息子さんに急にあげたくなった。彼の15歳の今の体格なら、私が着るよりも、きっと彼がきる方が似合うと思ったのだ。アンケさんは、微笑みながら受取ってくれた。
午後1時06分発のハンガリー・ブタペスト行き(プラハは途中である)に乗って、私たちはプラハに向かった。汽車はなんと、ひたすらエルベ川をさかのぼってプラハまで走る。ドレスデンに着いた日以外は、すべてお天気に恵まれた今回の旅、プラハまでの2時間11分、車窓からの眺めを存分に満喫しながら、昨日の結婚式の余韻に私は浸った。
妻と娘はさすがに疲れているのだろう、すやすやと寝入っていた。私は冷蔵庫に余っていたパンやチーズやハムを取り出し、ビールを飲んだ。ドイツのビールは、安くてしかもうまい。つまみのチーズやハムがこれまた最高。そうこうしているうちにあっという間に汽車はプラハに着いた。
怜君が、せっかくプラハ経由なのだから、最後にプラハに一泊するようにホテルを予約してくれていた。おんぶにだっこの今回の旅。すべて、怜君がこまやかにあれやこれやの気遣いを我々に対してしてくれていた。
一昔前のように、パスポートのチェックもなく単に移動した感覚だったが、やはりプラハは似てはいるが、異国であった。一日だけの滞在だったので、駅で円をクローネというチェコの通貨に替えた。
両替をしてくれた男性にたずねると、ホテルまでは乗り換えて地下鉄で行けると教えてくれた。タクシーで行けば、両替したお金のほとんどが消えてしまう。考えた末、重い荷物を3人引きずりながらプラハの地下鉄を体感すべく、乗り場を探してクローネの小銭で(券売機)切符を買った。
プラハの地下鉄の料金は時間制で、一時間ごとに料金が異なる。ところ変わればで、面白い。なんとか地下鉄に乗った。さてどこで乗り換えるか、車内の高校生くらいの女の子2人にたずねると、親切に教えてくれた。
驚いたことに、かなり年配の男性が自転車持参で乗り込んでくる、これまた、ところ変わればで、面白い。乗り換える駅に到着、次に乗る地下鉄を、今度は30代の男性に確認すると、これまた親切に教えてくれる。人間困ったら、よく人を見て、あらゆることにすがるのだ。いい意味で旅の恥はかき捨て。
さてなんとか、ホテルのある旧市街中心部の駅に着いた。後で考えるとそこからホテルまでの距離は大したことはないのだが、重い荷物を引きずるのには、でこぼこの石畳は誠に持って負担が大きい、がしかし、何人かの人にこれまた訊ねながら、目指すようやくホテルにたどり着いた。
タクシーに乗るのは簡単だが、好奇心と体力が許す限りは、できる限り五感をフルに動かした方が、記憶が頭ではなく身体に刻まれる。ただ、無謀なことはしないほうがいい。夜だったら、タクシーを使ったと思う。
その時はたいへんなのだが、やはり旅は苦労したほど印象深く脳裏に刻まれる。怜君が予約したホテルは、本当に古い古い中世の建物を改装したなんとも味わいのあるホテルだった。雰囲気はいいのだが、エレベーターがない。
我々の部屋は一番上の屋根裏部屋、向こうの数え方では3階に当たるが、0階があるので、3階と言っても4回、その迷路のような曲がりくねった階段を重い荷物を運び上げるのは、いささかの難行苦行であった。
最後、無理やり部屋にした屋根裏に通じる、ヒト一人がようやく歩ける細い階段をおもい荷物を抱えてすりぬけるのは、今思い出しても二度とはしたくないくらいだ。
だがその細い階段をを登りきると、広い空間にベッドが3つゆったりと置かれていて、3星ホテルの意味が納得できた。重い荷物から解放され、ともあれほっとし、すぐに小窓から望めると、プラハの街並みの一部が、かすかに望めた。うーむ、古い遺産的建物が密集している。
午後五時ころ、少し休憩した後せっかくのプラハ、妻と私と娘の3人で歩いて、かの有名なカレル橋を目指した。ホテルの人があるいて行けるというので、いつものように、曲がりくねった、ここは中世そのまま、時の流れにが止まったままというか、違う時代に彷徨いこんだかのような、石畳の路地を歩いた。
最短距離を歩けば15分もかからないところに、カレル橋はあったが、我々はその倍くらいの時間を費やして念願の橋にたどり着いた。陽はまだ高く、秋を迎えたプラハ、カレル橋周辺は観光客ごったがえしていた。人の波で穏やかな気分で橋を渡るなんてとんでもない。
スリに気をつけて、バッグをしっかり持ちながらの記念撮影、早々に橋を渡り、対岸の小高い教会を目指して、3人で気の赴くままに、ぶらぶら散策。次女は2年前の冬、怜君たちと来たことがあるので、盛んにここは来たことがある、来たことがあると、口にしていた。
それにしても、妻も娘もよく歩いた。3人でカレル橋周辺を歩いた記憶は、おそらく次女の中では、長きにわたって記憶に残るだろう。特におそらく有名な教会なのだろう、そこに通じる長い石畳の階段はさすがに疲れた。(娘がのどが渇き、その場で絞って飲ませてくれるオレンジジュースで、なんとかしのいだことも、今書いていて思い出した)
教会にたどり着いた。そこからの、プラハの街の眺めは、これまた格別というほかなかった。やすんでは眺めた。ホテルへの帰り路は、カレル橋ではなく、観光客のいない普通の橋を歩くことにした。
橋の手前のベンチで休んでいると、何やら急に小雨が降ってきたので、夕闇せまるなか急ぎ足でホテルに向かう。3人で相談し、夕飯はホテルでしようということになり、ホテルの近くのケバブとピザの店でテイクアウト、小さな雑貨屋で、飲み物も調達した。
ホテルで、つつましく夕飯をすませた後、シャワーをを浴びさっぱりして、今度は私と妻の二人きりで、夜のカレル橋を眺めに出かけた。手前の橋から、美しくライトアップされたカレル橋を二人して眺めた。
わずかな滞在のプラハであったが、異邦人の私にとってはまったく別世界、映画でみた素朴な中世が丸ごと残っている古都という印象、(ローマなんかとはまるで違う)華美ではなく、堅牢な中世の建物が、カレル橋をはさん両岸にひしめき合っている。ドレスデンと似ているが、路が狭くまるで迷路のような都。(無知な私は、プラハの歴史を俄然知りたくなりました)
夜の都はことのほか闇が濃く、路地裏を一人で歩くのは、あまりにも明るい日本の都市から来るとちょっと怖い。厳しい夜の長い冬を想像すると、明るい日差しの宮崎育ちの私にはいささか暗すぎる。小雨のなか、街灯やレストランからこぼれるかすかな明かりで黒く光る石畳は、時折不気味に感じるほどだった。
大国に絶えず脅かされながら、苦難の歴史を抱えた多くの東欧諸国の中の一つ、チェコ、ひと昔前だったらゆくことさえ叶わなかった邦なのだ。そこに偶然立っている我が身が、何か名状しがたい感覚に襲われた。
ホテルに戻って、ベッドに横になっても何か落ち着かず、一人では広い屋根裏部屋はちょっと怖い。日本の本でもないと過ごせない。またいつの日にか是非プラハを訪れたい。その時まで、ほんのわずかであれ、東欧の歴史を学んでおきたい。
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