11月も今日で最後である。老いのフリーター的肉体労働は火曜日で終わり、昨日今日と肉体労働はなし、昨日も買い物や散歩以外、外に出ることはなく終日家で過ごした。私はアウトドア仕事をしているので、それ以外の時間はほとんどを家で過ごすような老人気ままライフを、手術後特にするようになってきている。
全集に掲載されていたユゴーの写真 |
18才まで本をほとんど読まずに過ごしてきた私が、あれから半世紀以上、わずかな時間本を手放さない生活を続けている。相変わらず本を読むスピードは遅いのだが、超スローペースで本好きになってきたのはなぜなのかは、やはり18才で上京し、小さな演劇学校に入って、あまりの我が無知と出会ったトラウマが、いまだに続いているからである。
あれから53年の月日が流れたが、古希を過ぎていよいよもって本を読むことに割く時間が増えてきている。年を重ねるにしたがって本を読む体力が落ちて来るのが当たり前だと想うのだが今のところより好きになっている。(気がする)
先のことはわからない。今に集中するだけである。コロナ下になり、人に会う生活が極端に少なくなったこと、人に会わずに過ごし、静かに本を読んで暮らす生活がすっかりこの4年間で身に付いたのだと思える。
コロナ下の否応なしの引きこもり的時間の到来で、降ってわいたかのような自分との内省時間が増えたことで、超ノロノロ読書時間が増えたことが、以前にもまして私が本を手放せなくなり(オーバーではなく)大きなパラダイムシフトが起こったのだ。(とおもう)
さて、今私はヴィクトル・ユゴー原作の大長編【レ・ミゼラブル】を読んでいる。新潮社世界文学全集一巻だけで515ページある。ゆっくりお休みの日に集中して読み進んでいる。夏、猛暑でほとんど長編を読む気力がなくなっていたのだが、ようやく秋から冬にかけて、これから来年春まで、読める間に古典を中心に読みたい長編を読むことに決めたのである。
長くなるのではしょるが、こないだの釜山への旅で韓国版のミュージカル、(経済だけでなく舞台や映画での韓国の文化は目を見張る)レ・ミゼラブルをみたこと、戻ってから古いのと、最近の映画、ミュージカルのDVD3本を見ていずれも感動したことによる。
映画やミュージカルは原作をどのように抽出したのかが、にわかに知りたくなったことと、ヴィクトル・ユゴーという大作家の小説をまったく読んだことが、この年齢までなかったからである。朝頭がスッキリしている時間帯(しか長編は読まない)で読み進め、いまワーテルローの戦い、(ナポレオンとイギリスとの戦い、映画やミュージカルではカットされ、そこだけで50ページ以上書かれている)400ページまで読み進んだところである。
当たり前だが、小説は映画やミュージカルとはまったくといっていいほど異なる。映画やミュージカルは視覚聴覚にダイレクトに迫り手軽に触れられる表現であるが、小説はページを捲りながら文字を通して想像しながら、自分のからだのリズムで読み進む。ゆっくり高い山登りをするかのように。レ・ミゼラブル、小説ならではの物語で、原作を読もうと思ったことが正解であったという気持ちが、私に五十鈴川だよりを打たせる。
あの時代の背景、戦争シーンの長い描写力ひとつとっても原作を読まなかったきっと浅い理解でしか、レ・ミゼラブルをとらえられなかったかもしれない。いずれにせよ、ヴィクトル・ユゴーのレ・ミゼラブル(虐げられし人々という翻訳が一番正鵠を得ていると思える)がこうも繰り返し世界中で上映、上演され、世界中で読まれるのは、世界中に多くの良心を失っていない多くの人間がいる証左だろう。
ウクライナ、ガザエリア含め、今も理不尽というしかない極端な偏見、差別、格差、不正、隠蔽が繰り返され、人間を人間とも思わない野蛮性には言葉がない。人間の痛み、貧困、人民の気が遠くなるほどの流血の歴史のうえにようやく獲得した人権と言う言葉。大事に、大切にしたい。
戦争は人間を狂気に放り込む、そうなってからでは遅いのだ。【レ・ミゼラブル】は数多の苦難の果てようやく築かれつつある人間の尊厳の崇高性、良心を描いた先駆的な作品なのだと、遅蒔きながら老人の私は(まだ途中だが)理解した。遅くはない。平凡で平和りに、島国に生きられているる一老人として念う。流血、報復の連鎖をたちきるためのにヴィクトル・ユゴーが心血を込めた小説がレ・ミゼラブルなのである。