昨年の11月から本格的に始めた、シェイクスピア作品の、松岡和子先生の翻訳の長い台詞(主に10行以上の)の筆写を始めて数ヶ月が過ぎようとしている。
ハムレットの筆写から始めて、オセロ、十二夜、間違いの喜劇、夏の夜の夢、トロイラスとクレシダ、ヴェニスの商人、ウインザーの陽気な女房たち、テンペスト、そして先ほどリチャード二世を終えたところである。すでに10作品の筆写を終えたことになる。(ロミオとジュリエットはコロナ以前に終えている)
自分でも驚くほどのハイペースで進んでいるのには、やはりなにかしらの理由があるのだとは想うが、一言で言えば松岡和子先生の翻訳の日本語が新鮮に感じられ、学べ、筆写が楽しいからにつきると思う。それは日本語に移しかえられて輝くシェイクスピア作品の言葉の魔力が私をとらえて話さないからだ。
長い台詞を筆写したいという単純なおもいつきで始めたことなのだが、今更ながらに書くという、手をただ単純に動かすという行為が老いつつある現在の自分の体をかくも活性化するということにちょっと驚いている。ここまで熱中するとは正直思いもしなかった。
もっと老いて、企画することや、大きな声での音読ができなくなっても、意識がはっきりしていて、手が動く間は筆写ができるのでは、との新たな老いゆく楽しみが見つかったことに対する喜びが、五十鈴川だよりを打たなくても、満たされているのだと、思う。
亡き父は、晩年ひたすら囲碁三昧だったが、囲碁は相手がいるが、筆写には相手はいない。ただ自分という揺れ動く存在と向かい合うだけである。手が動けば筆写できるということでは全くない。全身の意識の想いが手に込められ、文字が白紙に言葉となって現れるのである。
まあ例えば、リチャード二世で言えば、80ヶ所の長い台詞を筆写したわけだが、中にはリチャードの五幕5場の長台詞は70行近くある。当初始めた頃はちょっとハードルが高いのではとという気もしたのだが、実際10作品の筆写がスムースに進んだのは、多分何度も繰り返し読んだことのある好きな作品だったから、筆写も思ったよりもずっとはかどったのだと思う。
でもこれからは暖かくなり、筆写ばかりをやっている幸福な時間は過ごせないだろうから、やれる冬場に、やれる限りのことを、私としてはやりたいのである。そういう意味では、70歳代での過ごし方の核のようなものが、働けることも含め、あらたに加わったことだけは確かである。
トルコとシリアでの大震災の報道、正視に耐えない、累々たる倒壊した建物瓦礫の映像、現実である。方やウクライナではおぞましい戦争がやまない映像が。言葉の無力感にとらわれる、殺しあいと、救援活動。おびただしい空前絶後の血の雨と、涙の雨、慟哭。経験したことのない私には、皮膚感覚の痛みとしては決して感知し得ない、私の日常とのあまりの乖離。
シェイクスピア作品の登場人物の絶望的な慟哭、運命を呪う台詞を筆写していると、嫌でもウクライナや、アフガニスタン、ミャンマーほか、全世界のありとあらゆる弱い立場におかれている老若男女の不条理や理不尽さのことに想いが及ぶ。400年も前に、すでにシェイクスピアは人間の不毛と不条理を書いていたのだ。今をいきる私に何ができるのか、できないのか考えたい。
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