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2016-11-27

お墓掃除帰省旅の帰り、寄り道、福岡アクロスで、I氏と二人だけの声出しレッスがかないました。

雨である。たまさかの雨は、まさに私にとっては慈雨である。52年ぶりの同窓会や、お墓掃除帰省旅、また11月は玉ねぎを植える月であり、声出しレッスンはいつものように続き、一家の主として、ささやかにやらねばならぬこと、特に薪づくりなど、あれよあれよと過ぎてゆき、この雨。有難い。

一日の過ごし方に、リズムがある、リズムが生まれるような暮らし方というものを、何とか工夫して過ごしたいという、気持ちが私にはある。だから、つたなきお恥ずかしブログを書き続けているようなところが、いまだに私にはある。

さて、何を書こうかと、つらつら おもんみるに、アサヒビールI氏と先日帰省旅の帰り、遊声塾の番外レッスンを行ったことに少し触れたい。その日23日、、門川を朝9時前に立ち、高千穂経由で、地震で今も通れない南阿蘇を迂回し、(天変地異の運命を生きるしかありません)博多アクロスにに夕方5時についた。

待ち合わせたI氏と(氏の会社はアクロスの7階にある)アクロスの地下にある、ミニレッスンスペース(氏があらかじめ借りていた)にゆき挨拶もそこそこに、二人で恋の骨折り損を交互に、すべての役を輪読した。

休み休み3時間近く、全幕読了することは叶わなかったが、5幕の一場まで 読み進めレッスンを終えることができた。

この9月、I氏は香川支店から福岡支店に転勤になったのだが、香川支店にいるときから、月に一回しか参加できない番外塾生であったのだが、福岡に転勤になっても可能な範囲で遊声塾は継続したいという意思を示されていたので、帰省旅のついでに博多まで足を延ばしたというわけである。

情熱には情熱でキャッチボール、報いる というのが、わたしのささやかスタンスである。何よりもレッスンするのが愉しい相手とのレッスンは何物にも代えがたく、面白い。まあいわば、思いもかけないI氏との熱きレッスンが博多の天神のど真ん中で、二人でやれることになろうとは思いもしなかった。

それもこれも、やはりこれは何かの機縁というしかないのだから、たまさかこういう初めての出張レッスンもありということで、意外性の極み的な二人だけのレッスンが天神アクロスの地下でひっそりと行われたことを、五十鈴川だよりに書いておきたい。記憶に残る贅沢時間。

レッスンを終えた私たちは、アクロスの向かいの路地の餃子屋さんに直行、I氏に夜食をご馳走になり、外に出ると雨。スマホのナビを頼りに、博多から岡山にむかった。。

思うになかなかハードに思える旅の中での、寄り道贅沢時間、なかなかこのような意外な時間は、持つことがかなわないし、このような出来事は、そうは私でも起こりえない。

やはりI氏の情熱と、私の中の情熱が結びついたということだろう 。そしてありがたいことに、いまだそういう遊び心が自分の中に在るという、自在な確認ができたこともうれしかった。

博多に着いた時、レッスンができるだろうかというくらい私の体は疲労困憊していたのだが 、レッスンはできた。そしてレッスンで生まれたエネルギーが深夜岡山まで運転するエネルギーを生んだ。途中宮島で行きの別府と同じように仮眠熟睡し、朝日に迎えられ、我が家に7時過ぎ無事着いた。

深い信頼関係が生まれるのに、秘策などというものはありえない。現代という索漠とした、混沌とした時代の最中にあって、人知れず地中深く根を張るような関係性を、育むにはいかに生くべきか?

I氏を含めた、ささやかな 声出し仲間と、目には見えない内面世界への旅を、しばし続けたいと想う。

これ以上野暮なことを書きたくはない、私は野暮なことが苦手である。



2016-11-25

40年ぶり、兄弟で力を合わせ、お墓の掃除ができました。

20日午後倉本聰先生の講演会を聴いて先生にご挨拶し、車で岡山を発ち高速をひた走り、何回か休み、別府に11時過ぎ着き、さすがにくたびれたので、車が休めるインターで5時間近く寝て(妻が考案した布団に完全に足を延ばし寝袋で熟睡できた)起きて2時間ほど運転し、兄の家に8時前には着いた。

(別府から峠を超え、北川の流れと北浦の海が目に入ると、故郷に帰ってきたという不思議な安ど感にいまだ私はつつまれる、高速を降り早朝の北浦の砂浜で 少し休んだ、来年は北浦の海で泳ぎたいと思っている)

さてその日、21日、少し休んで今にも雨が降りそうな中、兄と二人お墓にゆき、40年ぶり、屋根付きのお墓の主に屋根を含めた、たまりにたまった苔を、二人して3種類大中小の、金のブラシで4時間近くごしごしと辛抱強く、磨きに磨いた。

時間が経つにつれて、膨大な量の苔が(特に光の当たらない北側部分と裏側)とれ、大変ではあるのだが、はかどり始めると、二人して夢中になってバカなことを言い合いながらの作業を楽しんだ。

お昼近くから小雨が降ってきた中、切りのいいところで作業を中止、兄が水圧のかかる散水用のホースを家に取りに帰り、ブラシで磨き上げた部分に水をかけ、洗うと、見違えるほどきれいになったお墓が姿を現した。

途中、次兄もやってきて中高年兄弟トリオでの、力併せての、まさにつもりに積もったちりや苔を、お祓いする、 めったにはできない儀式をすることができたことを、なにはともあれ、きちんとできた喜びを五十鈴川だよりに書いておきたい。

よく22日、朝食後再びお墓へ。長兄と二人やり残した部分を仕上げるために、2時間近く昨日の続き、快晴に恵まれ、朝日を浴びた掃除の行き届いたお墓は、塗装がはがれていても喜んでいるかのように思えた。

これで来年春、暖かくなったら塗装も兄弟で力を合わせて、何とか仕上げたいと思っている。今回の帰省は、お墓掃除が目的だったので、その願いは満願成就となった。

21日の夜は、兄夫婦が私を鮎やな料理(延岡の五ヶ瀬川のやな場での炭火焼)、22日夜は姉夫婦がお寿司でもてなしてくれた。

また、22日昼はまたも兄夫婦に、おいしい中華料理をご馳走になったのち、わが山野の素朴な紅葉が美しい五十鈴川のほとりをドライブに連れて行ってくれた。

23日早朝出発前には、姉夫婦が私をへーべーず(柑橘類のスダチの大きいの)取りにつれて行ってくれ、たくさん車に積んで持ち帰ることができた。

今回門川には、2泊3日のちょっとあわただしいお墓掃除の帰省旅、毎回帰省の度に、兄も姉も私も歳を重ね、人生の晩秋がいよいよ近づいてきつつあることが、ようやくにして少し実感できる旅となった。

わが兄弟も戦後を何とか生き延び、おのおの歳を重ね、いい感じで再会できる今を、私はことのほか在り難く受け止めている。

これからも年に数回、そして毎回これが最後になるかもしれないという感覚を大切にして、一期一会の帰省旅を可能な限りつづけ、祖先に対して感謝の想いを馳せたいと思う。
 

2016-11-19

竹韻庵に、母と赤玉ねぎをうえました。

旅から帰ってまだ一週間、なにやら幸せな感覚がいまだ体をおおっている、その感覚をいつくしみながら日々を送っている。

さて、竹韻庵に昨日母とゆき、赤玉ねぎを200本ほど植えた。竹韻庵には水道がないので、雨が降りそうな前の日を選んで植えるようになるべくしている。

夢が原退職後、一念発起して、体が動くうちにほんの少しでも土仕事を母に倣って始めた私だが、やはり何事も丸3年はやってみないとだめだと思い知らされている。

この歳になって改めて思う、物事をなすには何よりも丁寧になさねば、何一つ手にすることはできないと。何事もすべてそうだとは思うが、あらためてその実感に襲われる。

母と畑に行くたびに、その丁寧な仕事、土をいとおしむかのような、その84歳の体の、指先の動きに私は打たれる。

だから、最近 母との畑時間を、私は何よりも最優先している。目と鼻の先にこれ以上はない土いじりの先輩がいるのだから、感謝するほかはない。

母は野菜作りに関して、書物を一切読んではいない。 ただただ自分で経験を積んできただけである。義父がなくなって16ねん、ひたすら小さな庭に野菜を植えることを生きがいのように今も続けている。我流だがその野菜の出来栄えは見事である。何故か?


その母の育てた愛情野菜を、わが家族は今もいただきつつ、日々を送っているのだが、その愛情の源は、どこから出てくるのかを、私は母との土仕事の中から学びたいのである。

ところで、今年は玉ねぎの苗が入荷不足で 、どこに行っても赤玉ねぎの苗は売っておらず、あきらめかけていたのだが、長船の農家さんを紹介してもらって訪ねたところ、偶然分けてもらうことができた。

すぐ母に電話したら、直ぐ植えにゆこうとあいなったのである。母は今年の夏、宮崎に初めてゆき、我が家のお墓参りをしてからというもの、ことのほか元気で私を驚かせている。

針仕事と野菜作りという晩年時間を、悠々と過ごしている母を見ていると、私もかくありたいと願うのである。

その家族のために役に立ちたいという、母の思いの深さに私は脱帽するのである。小さきことに対しての、一途さ、健気さ、愛情の深さに。

竹韻庵について 、私も母も先日植えた玉ねぎの上に柿の葉っぱがたくさん落ちていたのだが、私と母は、まずその落ち葉を取り除くことから始めた。

こんなことを書くと面はゆいのだが、愛情というものはどうしたら自分の中に根を生やすことができるのかを、母との暮らしの中で私の中に根付かせたいという思いが、深まる晩秋である。

ところで明日、富良野塾の創設者、倉本聰先生の講演会がおかやまで開かれるので、本当に久方ぶりに先生にご挨拶し、そのあと急だが門川(五十鈴川)にお墓参りに帰ることにした。

2016-11-16

齢64歳にして、初めて美々地小学校同窓会に参加することができました。

予定通り3泊4日の旅を終え、月曜日人生で2度目の深夜バスで昨日の朝西大寺に帰ってきた。

名古屋で友人に会い、土曜日は52年ぶり小学校の6年生の時に1年間在籍した、宮崎県北方にあった、美々地小学校の同窓会に出席し、翌日娘のところに世話になり、月曜日はバスに乗る直前まで親友と歓談し、これ以上は望めないくらいの充実した旅となった。

美々地小学校の同窓会に 、よもやまさか出席できるとは思いもしなかった。まさに今回の旅の白眉のわが想いを、わずかではあれ五十鈴川だよりに書いておきたい。

人という生き物は、やはり思春期の思い出を生涯引きずって生きてゆく、そのことをまざまざと思い知らされた、感動的な同窓会となった。52年ぶり、たった1年間しか在籍しなかった美々地小学校での私の思いでは、思春期の入口の思い出として、今となっては淡い宝のような個人的な記憶なのである。

ブログではなく、 美々地小学校の思い出として、頭がはっきりしている間にきちんと書いておきたいほどに、私の人生にとっては大きい出来事がいまも心の片隅に息づいている。

美々地小学校は、槇峰銅山があった有名な高千穂の近くの、山間の銅鉱町にある、町中が一つの家族のような雰囲気を持った、ほかに例のない独特の、地名通りの美しい桜並木に囲まれた、小学校だった。

小学校5年間を、生まれた海沿いの町、門川小学校で過ごし、6年生の春、桜が満開の美々地小学校に転校した。一年間住んだ銅山の長屋の集落の地名は桜ヶ丘で、文字通り桜がそこかしこに植えられていて、坂道を下ると小学校、登ると中学高校があり、我が家のすぐ上に中学高校のグラウンドがあった。

書いていると、いまだありありと そこかしこの当時の銅山町、美々地の景観がわが心の中に鮮明な記憶の中で今も息づいている。

しかしその槇峰銅山は私が転校した3年後閉山し、わが同級生たちは全国に散ってゆくことを余儀なくされたのだ。

高校生の夏休み、閉山後美々地を訪ねた時のそのあまりの変わりようには言葉がなかった。面影が消えていたのである。あれは夢の中の町だったのかといえるくらいに。思えば思春期に小さなある種のトラウマを私は抱えた。

人間とは悲しいかな、共通の記憶を持つ間柄の関係性の中でしか、愛情や微妙な心理の肌合いは生み出しえない性を生きているのかもしれない。それは幻想にも近い形で。

さて、同窓会には全国から、南は宮崎北は、青森から27名が富士山のふもとの御殿場に集結した。宿からの霊峰富士が、同窓会を祝福するかのように迎えてくれた。

 なぜ私が52年ぶりにこの同窓会に出席することができたのかは、書くと長くなるが、歳と共に記憶の中のわが故郷への思が強くなってくる私は、帰省の折折に美々地を訪ねていたのだが、ある年、まだあった美々地小学校を訪ねた私は、縁あって小学校の近くに今も住んでいるT君と再会することができたからなのだ。

たった一年間しか在籍しなかったにもかかわらず、同じクラスでもなかったのにT氏は私のことを覚えていたのである。

なにせ52年ぶりだし、参加してもT君のように私のことを覚えていてくれるわけではないだろうし、いささかの不安を抱えての参加だったのは事実だが、私の杞憂はすぐに消えた。

私のことを記憶している人は少なかったにもかかわらず(半世紀以上が過ぎているのですから)たった一年しかいなかったのに、よく来たよく来たといって、大歓迎してくれたのである。

一番多感な人生の思春期、否応なく故郷から離散させられた、彼らのその後の人生の艱難辛苦は、各人各様、たような修羅の風雪の時間を生きてきたはずである。

それを生き抜いて52年後、今も(当時6年生は3クラス150人くらいだった)27人が集まっている、その家族的な絆の深さに、ただただ私は静かに脱帽し、感動した。

彼らは私が参加するはるか前から、五年ごとに 同窓会を行ってきていて、歳と共に参加者は減っているとのことだったが、それにしても熱い同志的絆で結ばれている同窓会に参加することができて私は心からよかったと今思いながら拙文をつづっている。

それに何と岡山は水島から参加しているT氏もいて、近く岡山で超ミニの同窓会をやろうとの約束もできた。

私の中で思春期を熱く語れる同郷人に一度にわっと会えたこのたびの同窓会は、何物
にも代えがたいご褒美、豊かな楽しいひと時を私に与えてくれた同窓会となった。

この同窓会への参加がきっかけとなって、老いてゆく中で、また改めて美々地小学校の同級生との新しい 関係性が育めそうで、私としては思い切って参加して心からよかった。

それにしてもこんなにも熱き友情で結ばれた楽しい同窓会に、いきなり 52年ぶりに参加することができた幸運は何といったらいいのかわからない、ただただ美々地という場所で出会った奇縁というしかない。美々地が私たちを結びつけているのだ。

外見は、私も含めそれ相応に年齢を重ねたが、各人、心の奥底に美々地での思い出を大切に記憶の宝として、生き抜いてきた同窓生の強さ、やさしさにいきなり参加した私は強く打たれた。

転校生であった私は、おそらく一生同窓会なるものに出席することはないと思っていたが、人生いつも書いているように一寸先はわからないのである。どこか心の底で私は同窓会に憧れていた。

初めて同窓会に参加して、いま思うことは、 美々地が私を同窓会に呼んでくれたことへの感謝である。私は今後可能な限り、この面々との会合には、同窓会にかかわらず、晩年時間駆けつけるつもりである。

同窓会の名簿作りから、今回の静岡での幹事から一切合切の雑事を引き受けてくださった方々、今も美々地に棲むT君、いきなり参加した私を暖かく迎えてくださった、今回の全同窓会メンバーに、こころからこの場を借りて感謝します、ありがとうございました。

くれぐれもお体大切にしてお過ごしください、またの再会を念じます。

2016-11-11

今日から本を片手にちょっと旅に出ます。

真っ暗、いつもより一時間ほど早く目覚ましで起きて、実は意識朦朧あまり時間もないのだが、これから今年2度目の遠出をする。

今夜は友人を訪ねて、初めての名古屋どまり、明日は静岡で小学6年生の時、一年間だけ在籍した美々地小学校の同窓会(同窓会に出席するのは人生で初めて)で静岡どまり、日曜日は東京の娘夫婦を訪ねることにしている。

いまのところ3泊四日の予定だが、東京にもう一泊するかもしれない。たまにしかこのようなことはないのだから、旅はやはりたまにするのがいい。

何事もめったにないから、感興が湧くというものだ。とはいうものの、私は旅がらす的な性格を多分に持ち合わせていて、旅が大好きである。

もっというなら、やはり人生は長い長い旅のようなものであると、この歳になるといやがうえにも、そのような気がしてくる、そのことはおいといて、久しぶりの非日常時間を楽しんでくるつもりである。

今年も残りひと月半、振り返るにはちと早いが、予期しないことが次々に実現した、私にとっては意義深い年となりそうである。

一年に一度か二度、ちょっとした旅をして、ひとり時間を過ごすというのは、私にとってはやはり大切だ。

なぜ旅に出るのかと問われたら、家族のもとに帰ってくるためなのではあるのだが、いわばある種の健康な病のような感情、絶対矛盾なのである。

旅に出て、ひとりで外でご飯を食べるときのわびしさといった、ない。だから今回も夜はどこかで誰かと夕飯をすることにしている。、このような他愛もないことを今後ますます、興に任せて書き綴る五十鈴川だよりになりそうである。

いわば、人生はいっときの 仮の宿、その仮の宿暮らしのつれづれを、煩悩のおもむくままに往還したい五十鈴川だよりである、といったところでいってきます。

2016-11-08

岡山映画祭にゆきました、そして思う。

先週から昨日まで、ことのほか多忙な、しかし充実した日々を私は送っていて、今日やっと五十鈴川だよりを書く時間が訪れ、ささやかな幸福感に体がつつまれている。

さて、二年に 一度開催されている岡山映画祭が一昨日の日曜日に終わった。私は木曜日から日曜日にかけて、6本の作品を見ることができたがいずれも素晴らしい作品ばかりで、このようなフィルムを岡山の地でまとめて集中して見ることができて本当に良かったと、今も書きながらおもっている。

一応私が見たフィルムだけでも書いておきたい。【幕が上がる・本広克行監督】【大地を受け継ぐ・井上淳一監督】【奈良ゆみ 歌に生き 愛に生き・宮岡秀行監督】【幸福は日々の中に・茂木綾子監督】【人魚に会える日・仲村颯吾(りゅうご)監督】【レイルウエイ運命の旅路・ジョナサン・テブリツキ―監督】以上。

全16作品のうちの6本を見ることができたのだが、【今、受け継ぐもの】というテーマのもとに、なかなか岡山では見るチャンスのない多様な作品群を、観ることができたことについて一言の感謝を、わが五十鈴川だよりに記しておきたい。

私も企画者の端くれを、20年以上 続けてきたからよくわかるのだが、何か事をなすには相当な継続的な忍耐を強いられるので、岡山映画祭のスタッフの努力に拍手を送りたい。

重いテーマの 作品も多く、簡単に印象感想を書くことは、みたばかりだし控えるが、いずれも観る側が真摯に受け止め、考えながら日々を送らねばと思わせるに十分な内容の、私が見た6本のフィルムであったことはしっかりと書いておきたい。

そこで、いきなりいつものように話は変わる。昨日、竹韻庵に朝一番にゆき一人で300本の玉ねぎの苗を植え、いったん家に戻り昼食をし、すぐまた今度は母も一緒に竹韻庵にゆき、母と二人で700本の玉ねぎを午後4時近くまでかかって何とか植えることができた。

本当は300本で終える予定だったのだが、今日雨が降りそうな予報だったので、お昼家に戻った時に、できたら午後も植えたいので一緒に行ってほしいと母に頼んだら、二つ返事で引き受けてくれたのである。

徐々に日没が早い季節の今、母と二人で1000本の玉ねぎを植えることができたのは、きっと岡山映画祭の今、受け継ぐものというテーマと、私が見た作品の数々が、私に力を与えてくれたからではないかと思っている。

感動はなかなかに継続しえないものであるが、だからこそ野菜に水を上げるように、わが心にも映画をはじめとする多様な芸術や文化的なビタミンをときおり心に注がねば、わたしみたいな単細胞な人間は、危ない危ない、流されると反省するのだ。

こんなことを書くとひきも切らず書きたくなってしまうのでやめるが、 私なりに今受け継ぐべき個人的足元の大事の一つが母との畑仕事、体動かし時間である。

母が元気なうちに、母から野菜の育て方を学び、母との思い出を体に刻み付けたいのである。

岡山映画祭で私が見たフィルム、原発被災後の今も続く大きな問題、また基地が集中する沖縄に生きる、若き才能の発信フィルムは、私自身の今を問いかける。

とりあえず、畑で母と作物を作り続けながら、私自身の足元を確認しながら、遠くであらゆる困難を抱え生きておられる方々に対して、ささやかな想像力を養い続けたいと思う。

岡山映画祭は、社会の一隅で真摯に生きておられる方々に 、寄り添う稀な映画祭である。岡山市民の一人として、私に可能なことはこのような形で何か反応し、何よりも映画祭に足を運び良き観客になることである。

見るためには、出かけてゆく健康な足腰が必要だ。パソコンはこれくらいにして昨日飢えた玉ねぎの様子を見にゆきたい。