ページ

2026-03-11

昨日は母の命日、東京大空襲、今日は東日本大震災の日に思う、五十鈴川だより。

 水曜日は労働OFFにしたので、五十鈴川だよりを打てるのが嬉しい。昨日は母の命日、そして東京大空襲の日、そして今日は東日本東北大津波、原発事故大災害の日である。あれから15年の時間が流れた。五十鈴川だよりを打てる間は、この日のことは忘れない。すべての死者の冥福を祈る。(やがて私も死者になる)

桑江さんご夫妻に出会え幸福である。

個人的に1月、2月、3月は両親、義父の命日が続く。また家族のだれかの誕生日が続くので、例年いやでも死者を悼んだり、生きてこの世に在り、穏やかに健康に平凡に生活出来ていることにたいする感謝の念は、私の場合老いとともに深まる。

近年、私にとって春が来るまでの冬の季節は、五十鈴川だよりをうち始めて以後、死者へのおもいを深める時間であり、またこの間に授かった孫たちとの出会いで、あらためて命の摩訶不思議さに気づかされ続けている時間でもある。

人生の持ち時間は有限である、ということを、今年からかすかに実感しつつある。還暦までは、頭では理解はしていても、限りなく実感がともなわなかったのだが、元気に思考、動ける時間は有限である。

とはいえ、ありがたいことに、いまだに肉体労働がパートタイムでできる体力が在り、五十鈴川だよりも打てる。だからこそ時間を大切に生きたい。何人も歳を重ね、程度の差こそあれ老いる。厳粛な自然の摂理に私は抗いたくはない。老いは哲理、病気ではない。体力が無くなってきたら、きっと気力も萎える。だからこそ今が、一日が大切になる。

世の中、人生100年時代とのたまうが、あくまでもその人らしく、生をまっとう出来ることをこそ、私は望む。自然に抗うのは不自然である。生まれたばかりの赤ちゃんがなにもできずお母さんの手を借りるように、何人も最後はどなたかの手を借りるのである。その自然哲理に私はあやかりたい。でもギリギリまでは命を(思考する楽しみ)みつめられたら、言うことなしである。

話は変わる。私が生の有限をかすかに実感し始めたのは、やたらと昔のことを懐かしがる、というか、その懐旧の念の深まりが、日に日に濃くなってきているのを感じるからである。現世に生きている喜びもさることながら、昔の思い出(善きことばかりではない)によって、(故郷回帰願望はその最たるものである。)再び生き直しをしているかのような感覚(錯覚であれいいのである)を感じるからである。

その事で打てる(書ける)打てないは別にして、打てる範囲で打てるうちに、孫たちにお爺の思い出を残しておきたいという気持ちが湧いてきている。今はまだ、生きるのに忙しいけれど、五十鈴川だより(のなかで、タイトルは未定だが、孫たちへ)、なにがしかの文章を遺したい。明らかなことは体力がなくなったらうてない、からだ。

老いると昨日できていたことが、突然できなくなる。なき父が26回連載していた新聞記事を遺してくれていたことで、今、私がどれほど日々生きるエネルギーをもらっているか計り知れない。また、母が晩年病をかかえ、病床からの葉書が手元にある、宝である。

PS 今日の写真は昨日送られてきた、桑江良健さんの回顧展のお知らせ。最後の個展になるとのことである。出会えて30年の関係性。このような人物と出会えて言葉がない。幸福である。

2026-03-08

2月から、長周新聞の購読を始めました、そして思う、3月最初の五十鈴川だより。

 3月最初の五十鈴川だより。国際法無視、アメリカ、イスラエルによるイランへの空爆ほかの報道映像、ガザ、ウクライナ、終わりの見えない戦争地獄エリアの映像に、老人の私の感覚は麻痺している。想像を絶する。編集され切り取られた映像をいくら流されても、ごく普通に生活している民衆の痛み、苦しみ、慟哭は、哀しいかな実感できない。そして深い深い世界の真実は巧妙に隠蔽されているようにしか思えない。


だが、80年前のこの日本で3月10日、何百機の(正確な数はわからない)B29による焼夷弾の一晩の空爆で、東京都内の死者はなんと10万人に及んでいる。一晩でである。

そのあまりのすさまじさを、作家の永井荷風や谷崎潤一郎、半藤一利、太宰治、向田邦子、山田風太郎、北杜夫などなど、また芸人の徳川夢声、古市ロッパ、などが日記に残している。

西川清史著、[荷風たちの東京大空襲]を読むと、そのあまりの生き地獄、阿鼻叫喚の、まさに言語を絶する様子が、赤裸々に綴られている。齢74歳の私がいま読んでも、この世の地獄絵が彷彿と想像できる。人は極限状況におかれたら、豹変することでしか生きられない。誰がその事を非難できるであろうか。ただあの極限のなかでも、自ずとそのひとらしさは 文章から浮かびあがってくる。自問、自分が極限状況におかれたら。やりきれないが、きっと豹変する。だからこそ、平和で生きられる今をこそ大事にしたい、のだ。

この歳になって、というのは、老い先が短くなって思うことは、孫たちや未来の日本を担う人たちにも平和。穏やかな日常生活が送れる平凡な日々を、と願わずにはいられないからである。

私を含めた、戦後生まれ、平成生まれの娘たちには、皆目そのような艱難辛苦世界は想像だに出来ないことである。が、80年前、とくに東京ほか日本の大都市は空爆され、今のイランやウクライナやガザでの悲惨極まる阿鼻叫喚地獄絵を、都会にすむ人びとは経験したのである。

戦争エリアの人々の、想像を絶する苛酷な生活状況の理不尽さに、老人の私など思考停止に陥りそうになるのだが、老いてはいても無関心だけは勉めて避けたい、という気持ちが五十鈴川だよりを打たせる。

話は変わるが、2月から購読を始めた地方発、下関の長周新聞(一週間に数回郵送され、見開き四ページ、読みやすい)、老人の私には読みやすい。大都市の新聞社とは全くといっていいほどスタンスが異なる。庶民生活者の視点が揺るがない。そこがいい。じっくり目が通せる。

ほとんどが世界の大都市(政治、経済、文化、メディア、テレビ、ネットフリックス等の娯楽番組含め)からの、映像情報に対して、活字好きの私には長周新聞は新鮮である。軽重浮薄な人生歩んできた私には、教えていただくことが多い。

先の大戦で知らされた日本人の、大きな流れに染まり易い体質(私などご多分にもれない)は、ゆめゆめ油断してはならない。幸い言論の自由が国是として憲法で保証されているので、五十鈴川だよりを打ちながら、一人のお爺さんとして、何よりも穏やかで平凡な、マイナー日常生活の有り難さを金太郎飴のように打ち続けたいと、念う。

PS 私の両親は、北朝鮮からの引き揚げ者なので、一面の記事、すぐに読ませていただきました。あまりにも読むのが辛い。


2026-02-28

2月最後の土曜日の朝、千住真理子さんの(続ける力)という本にエネルギーをもらい、ボブ.ディランの詞の書写を始め、思う五十鈴川だより。

 土曜日、もう2月が過ぎる。今年は、その日暮らし老人生活を、今のところいい感じで過ごせている実感がある。打てる時に打っておく五十鈴川だより、日々感謝、ただそれだけである。当たり前、ある日突然五十鈴川だよりは終わる。だがその日までは打ちたい。打ち続けたいという願望が消えない。


さて、いまだ労働者として、副業で日々の生活の幾ばくかの糧を得ている身としては、健康こそが全て、そのコンディション調整こそが、今を生きるその日暮らし生活者としては、第一義である。健康が損なわれたら、五十鈴川だよりは打てなくなる。

統計というものによれば、いま男性の健康寿命は73歳あたりであるとのことである。私はすでにその年齢を過ぎている。そういう意味ではありがたき日々を私は送っている。

ところで、昨年秋千住真理子さんの、続ける力(その事は書いている)という本を読んで、痛く感動した。(今も手元にある)

長くなるので簡略に打つ。真理子さん(と呼ばせていただく)は私よりも10歳年下である。生まれ落ちた時代も環境も、すべてのことがあまりにも異なる。私はヴァイオリンに触れたこともない。だが事実打たれた。別世界を生きておられる方の本を読んで、何故私が感動するのか、を縷々説明するきはおきない。

本を読んだことで生まれて初めて、千住真理子さんの演奏を、昨年11月8日東京の八王子で聴いたときの私の驚きは、すでに五十鈴川だよりに打ったので割愛する。日々謙虚に修練する、続ける、続けられるその泉のようなエネルギーの源を、続ける力のご本のなかで、赤裸々に吐露されている。

私は若い頃から、持続力が、限りなく乏しく、世の中に出て飽きっぽい性格の自分を時にもて余し、苦く暗い青春の日々を送っていて、20代の終わり、このままでは駄目になるという、言うに言えない感情におそわれたことをいまだに私は忘れない。割愛するが、自信が湧いてきたのは富良野での労働体験以後、30歳を過ぎてからである。

ところで、千住真理子さんは一度ヴァイオリンを二十歳の頃手放されたことをご本で知った。天性のヴァイオリニストにしても数々の試練、挫折を乗り越えて現在がある、のである。

今現在も智力、体力を研ぎ澄まし、鍛えておられ、プロの水面下での日常がユーモアをもって綴られている。真理子さんのご本は、今を生きるすべての人に開かれている。その日暮らしの老人にも、限りなく勇気を与える。

その日暮らしの充実を図るために、一日でも長く肉体労働従事者で在りたい、との覚悟が深められたのは、千住真理子さんの本を繰り返し読んでいるからである。その本に触発され、この数年、折々続けていた、好きな言葉や文章の書写を、本格的に2月16日から始めた。

2月20日から時間を見つけて、ボブ.ディランの詩、歌詞を書写している。200以上はある歌詞を書写するのにはかなりの時間がかかる。だがもう決めて、手は動き、すでに全360ページの130ページまで進んでいる。わくわくすることは続けられる。

全く未知の、別世界の方のご本から、このような刺激を受けるとは思いもしなかった。そのような体、いまだどこかわくわくする心を老いてますます大事にしたい。さて、思い付いて始めたボブ.ディランの書写、いまの時代を予見するかのような、歌詞の内容のそのすごさは時代を鋭く撃つ。そして時代をこえる。書写しなかったらボブ.ディランの詩にも出会うことはなかった。

PS 今朝の写真は三鷹の娘のマンションの入り口に聳えるヒマラヤ杉の写真です。撮影者は長女の旦那さんのレイさん。彼は写真のセンスがいいので、時折五十鈴川だよりに載せたいとおもいます。

2026-02-25

ひさかたの雨の日に思う、午前中五十鈴川だより。

 ひさかたぶりの雨である。我が家の妻が丹精しているわずかな野菜、花などはきっと喜んでいるはずである。今年から水曜日も労働はオフにしたので、やはり余裕というてんで正解である。自在に気の赴くまま好きなことに静かに専心できる。

東京大空襲3月10日は母の命日である。

父の命日、2月5日を過ぎてから、ゆっくりと書写の時間が増えてきた。まず以前からやろうとおもっていた百人一首の書写を(万年筆で)終え、いまボブ.ディランの詩集に取り組んでいる。

何故、ボブ.ディランの書写をするのかの長い説明は省くが、ディランは今年85歳だという。18歳で世の中に出た頃、意味は深くはわからないのに、直感的にやるせなさとともに、あの声とハーモニカが、島国の田舎の少年の心に染みたのである。

時代は変わる。風に吹かれて、を聴くことがなかったら、まず広いこの地球のわずかではあれ、異国への旅をしようとは思わなかっただろう。あれから半世紀以上の歳月がながれ、お爺になって、あの吟遊詩人、歌人の詞の内容を、翻訳であれ、少しでも知りたい、解りたい、でないと、悔いが残る、と思ったのである。

この三日間、今朝も二時間ほどやったのだが、当たり前、時間がかかる。疲れる。でも楽しい。刺激がある。良くはわからない箇所が随分とある。が、想像力が刺激される。だから楽しい。そして続けられる。ウディー.ガスリーに捧げる詞など大変長い。肩が凝る。一時間やったら、少し我流体操をして、体のコンディションを整える。

私が好きな労働も根気、持続力がいる。いつまで出来るのかは神のみぞしる。いま私が一日一日の生活で、重きの時間を費やしているのは、根気のいることばかりである。集中力が伴わないと、何事も叶えられない。

敢えて根気のいることがこの年齢で、いまは好きなのは、自分でも良くはわからない。が、敢えて打てば、全く世の中に出るまで、怠惰の極みみたいな自分であったからだと、思える。世の中の荒波にもまれ、(基本的に私は今も怠惰である)あまりにも遅きに失したとはいえ、努力しないと大変なことになるという自覚が生まれて、半世紀、ようやっと少しは、普通になれたかのような、自覚を持つ私である。

お爺さんになって、人生の持ち時間を想像する。孫たちのことを想う時間増えてきたようにおもう。まるで遺言のようである。いいのである。その日思いつくことを打てる幸福が贅沢なのである。妻が仕事から帰ってくるまで、一人の雨の日を、いとおかしく過ごしたい。

2026-02-22

三連休の中日の朝に思う、五十鈴川だより。来月末ノア(最初の孫)の春休み、妻と私の3人で門川に帰ることに決めました。

 来月、私の最初の孫、望晃(のあ)が8歳になる。4月から小学三年生である。で、春休み私のふるさと門川に行かないかと誘ってみた。すると行ってみたいという。コロナの渦中、その後次々と長女に子供が授かり、私も何かと慌ただしい生活を余儀なくされていて、長女、次女家族共に帰省が未だ叶わずにいる。だが私一人でのふるさと帰省は折々続けていた。よもやの急展開で、ノアを連れてふるさとに帰ることに、なった。

下記に。
私は心底嬉しい。

そこで、私は妻も誘って、爺、婆、ノアの3人旅をすることにした。私の場合思い付いたら吉日なので、おおよそのスケジュールを妻に話したところ、妻も大乗気であっという間に予定が立った。

3月28日から30日まで、3泊4日の旅である。熊本までは新幹線、駅でレンタカーを借りて阿蘇を周遊し、28日は私が3歳まで過ごした高千穂に泊まる。翌日高千穂を散策、午後兄の家に。

29,30日は兄の家にステイ。お墓参り、五十鈴川、小倉が浜など我がふるさと探訪。31日熊本へ。熊本城を見て午後の新幹線で岡山へという、ラフな予定である。

先の帰省で、我が姉兄兄弟は(義兄、姉も)全員後期高齢者なので、ノアの記憶にとどめたく、私としては、ことの予定がすんなりと決まったことに嬉しさひとしおである。何よりもノアが行きたいと言ってくれたこと、そして妻もまたノアとの帰省旅に大乗気であることが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

古希を過ぎてからの、ふるさと帰省旅、毎回これで最後、悔いなくとの思いなのである。年に数回帰る度に、当たりまえ、私も含めた全員が老いてゆくので、まさに一期一会の貴重な旅となる。(予定)

昨日、妻が作ったラフなスケジュールを義姉、登紀子さんに送り、妻が確認の電話をいれると、私たち3人を心良く受け入れてくれるとのことで、私はともかく、妻は大変喜んでいた。兄弟とはいえ、妻は義姉との久しぶりの会話、弾んだ声にとにかく安心していた。いつぞやも打ったが、私が安心して帰省できるのは兄のお嫁さん、登紀子姉の存在が大きいのは言うまでもない。ノアとの帰省旅、何よりも妻が想像以上に、綿密に無理なく予定を立て、楽しみにしている様子。

話は変わる。2月26日は義理の父の名日なので、天気も良く、昨日午前中、お墓の草取りに妻と出掛けた。義父が亡くなった時私は49歳であった。娘たちは小学生。あれから25年の歳月がながれ、世界、世相、世間の移り変わりはいかんともし難く、我が家族、一庶民生活者の私にもにも容赦なく影響がおよび続けている。

が、何とかこのような一寸先のよめない時代を、家族全員、身すぎ世すぎ出来ていることのありがたさは例えようもない。我が両親、妻の両親への感謝は私の老いとともに益々深まる。老いてゆくお手本が身近にあるというのは幸福である。子供は親を選べない(違う説もあるが)けれど、精一杯のことを、思い付くかぎりのことをする。娘ふたりはスクスク育ち、自立している。

今しばらく、激変する時代の中、孫たちに、私と妻に何が出来るのかは判然とはしないけれど、お金では買えない楽しい思い出の記憶時間が残ればと念う。

PS 今日の写真は1974年に出版された、片桐ユズル、中山容、翻訳のボブ.ディランんの全詩集です。全358ページ、昨日から書写を始めました。時間を見つけてコツコツ進め、一月くらいでと、思案している。ノアとの旅の前までには終えたい。無事に終えたら、また五十鈴川だよりを打ちたい。


2026-02-18

今年から水曜日は労働OFFに決め、静かな一人時間を、もっと大切にしたくなりました。

 今年から労働する時間を減らし、水曜日は余程の事がない限り、お休みすることに決めた。したがって今日はお休みである。可能なら週に2日程度、五十鈴川だよりを打ちながら、いい意味で、健康で有る限り、その日暮らしの喜びを妻と送りたいと考えている。

さて、そのような私の日々の移ろいの中で、古希を過ぎて、折々シェイクスピアの長台詞の書写などをやったりしていたのだが、今年からいよいよ本腰を入れて、好きな文章や、歌、詩、などの書写をやることにした。(老いの楽しみ千住真理子さんの音楽を生で聴くことを今年も続けたい)

来月にでも歌碑を訪ねたい

それと、この丸七年労働に従事しいて、以前は好きとまでは言えなかった雑草採りが、古希を過ぎて、苦手意識が遠退いてゆくかのような(老いても体の使い方で、楽に感じるようになってきている)感じで、つまりは草と戯れるかのような一人時間作業の喜びを見つけたのである。

そのような塩梅で、草取り手仕事は、炊事、掃除、買い物、調理、洗濯あらゆる家事全般、生きて行う雑事の基本ともいえる忍耐を養える。それを克服する方法を体得してからというもの、臆面もなく打つが、一日がとても楽しいのである。だから能天気に五十鈴川だよりが打てるのである。

還暦を迎え、五十鈴川だよりを打ち始め、できるだけやりたいことしかやらない、愚直、正直に気持ちのいいことしかやらないとときめた。(古希を過ぎて言葉を交わしていない方には、益々不義理をすることになります。どうかご寛恕ください)

あれから丸13年の歳月がながれ、その願望(おもい)のほとんどは満たされ、益々そのおもいは深まる。そして、ありがたいことに、一人でもやれる、やりたいことが人生の持ち時間が見えてくる(感じる)にしたがって、絞れてきたのである。

老いのかけがえのなさ、日々自在感を受け入れ、その日暮らしに徹する。前回の五十鈴川だよりで触れたが、父の遺した歌碑の写真が忽然と次兄から送られてきて、いよいよもって思う。私は日々、両親を含め、あの世に召された、無数の死者と触れあえるかのような、その日暮らし考、を第一義に生きたいのである。私が元気に過ごせるのは死者のお蔭である。

2026-02-13

2月13 日、74歳の誕生日に思う、夕刻五十鈴川だより。

 74歳を迎えました。昨年の誕生日から一年がすぎ、この一年はずいぶんといろんな体験ができ、実に有意義な一年であったと思える。年々歳を重ねると、体力ほか体の機能はたしかに衰えを感じる。が、神様の粋な計らい、いやでも落ち着きが出てきて、それが私の場合、いい方向に流れてきている、と感じる。我田引水、あくまでも能天気に、前向きに考えている、ある種の老いの深まりを。

古希以後、緩かにこれまで培ったヒトとの関係性を手放し、見直し、新たな人との出会いと、再会、特にこの一年で、オーバーではなく、新たな地平のパラダイムに立てたような塩梅である。執着していたこと(やめたのではない、個人的には続ける)をすんなり手放したところ、以前は感じなかったような感覚が育ってきている(のだ)。老いゆく変化を。

この一年、ずいぶん五十鈴川だよりを打ち続けている。老いつつ、折々の日々を綴り打てる喜びは、老いるにしたがって増してきている、ようにさえ思える。それはおそらく人生の持ち時間を、いやでも我が体と心が敏感に感じているからである。(だからこれまでの自分とは決別し、もっともっと未知の世界を見たいし、新しい人とともに学びたいのである)

現在を更新し続ける。生きている喜びは私の場合、今のところ健康で在るからこそなのだが、古希目前の大手術以後、ますますもって深まっている。ありがたい事だと痛感する。世の中には健康にすぐれず、辛い、思うに任せぬ病ほかの、過酷な晩年、状況を生きておられるかたが、大勢いらっしゃる。(それだからよけい動ける、考えられる、おのれの幸せを思う)

世の中に出てから、思い通りには全くならないという、重い重い現実と日々格闘、この年齢までよくぞ生きてこられた、と実感する。そのことへの天運のよさを、ただ素直に感謝している。手術後、私はまもなく丸5年を迎えるが、日々折々、五十鈴川だよりを更新できている。


話は変わる。長くなるので簡略に、先日突然次兄から、亡き父の書いた歌の歌碑と、赴任していた中学校の校歌の作詞した歌碑の写真が送られてきた。ちちは83歳で冥界へたびだった。その父の年齢までは何としても生きねばならないという、(先のことはわからないけれども)見果てぬ覚悟がにわかにわき起こっている。

前回の五十鈴川だよりに、晩年の両親の写真をアップしている。苦労に苦労を重ねた末に、(当時、母は少し健康を損ねていたが、両親ともに頭はしっかりしていた)迎えた晩年、両親は幸せそうであった。その事が(姉と二人の兄が側でよく面倒を最後までみた)私には嬉しい。だからなのだ、今も私は安心して姉、二人の兄のいるふるさとに帰るのは。

頭がしゃんとしている間に何が出来るのかは、いまは判然とはしない。だが、かじまやぁと再会したこと、猪風来さんと出会えたことで老いの夢が(実現するしないではなく)、自分にとって大事な事柄がくっきりとしてきたように思えている。誕生日直前、次兄から送られてきた写真は、これからの私の指標になるのは間違いない。

PS 大いなる 望みをもちてひたすらに つらぬきとおせ ひとすじのみち。臆面もなく打ちます。このような親を持て幸せである。