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2023-12-30

2023年、今年最後の五十鈴川だより。

 今年は岡山に移住して以来、夫婦二人だけで過ごす初めての、お正月になる。そのためにいつもはなら帰省してくる娘たち家族のお迎え準備ほかで、慌ただしい年の瀬を過ごしているのだが、これほど落ち着いて静かな年の瀬は初めてである。

身を捨てて・浮かぶ背もあれ・師走かな

その事を、私はただ事実として前向きに受け止めている。このような大移動混雑時に帰省しなくても、帰省できる時節や都合のいいタイミングで、余裕をもって帰れるときに帰ってきてくれれば、もうそれで十分なのである。年に数回家族が行ったり来たりすれば、数ヵ月おきに孫たちの成長にふれあえる生活がキープできれば申し分なしである。

若い頃、不安定きわまりない生活を余儀なく生きていた私は、よもや家庭に恵まれ、子供に恵まれるなどということは思いもしなかった。

34歳で富良野塾を卒塾した私はひたすら平凡な生活者になりたかった。今の妻と出会い、37歳で父親になり40才で岡山に移住、背水の陣新しい仕事に没頭し、金銭的には余裕がなくても、妻のおかげで充実した子育て生活を経験させてもらい、その事は我が人生に言葉に尽くせぬ恵みをもたらしてくれた。

この岡山の地で娘二人は信じられないくらいすくすく育ち、学業を終え巣だち、それぞれの家庭を持ち、私自身も妻も新しい生活へと再出発した。5年前長女に最初の子供が授かり、私はおじいさんになった。穏やかな生活が続いていた矢先のコロナ禍、世界がパンデミックに突入した。

時は流れ、あれから4年近くコロナが5類に指定され、普段の生活に戻りつつある今年の秋、ウクライナに続いて、今年秋パレスチナとイスラエルの間で正視に耐えない終わりの見えない戦争が勃発し続いている。

この間、(コロナが5類に移行する前)69才になったばかりの2月、私自身が人生で初めての大きな手術を経験した。この経験は大きかった。同じ年の7月24日、次女に初めて男の子が授かり、まだコロナ報道生活で大変な最中、面会も叶わぬ中娘は出産した。その事は女性というジェンダーの母性のすごさを、私に実感させた。そして今年、ようやくコロナ自粛生活から解放され2023年の今年5月2日、長女に第2子女の子が授かった。その女の子も年が明けるとあっという間に8ヶ月である。

この新しい生命、孫たちの輝きが、昨年今年と2年連続で10年ぶりに企画者の血を目覚めさせ、なんとか企画を成すことができた。人類が抱え込んでいる宿痾、戦争と平和。私ごときの頭ではなんとも絶望的な困難、ややもすると厭世気分陥りがちになる。だが絶望を希望に変える事こそが人間にできる知恵なのだと思いたい。考えられるときに考えておくことを習慣化しやれるときにやっておかないと、後々取り返しがつかない事になるのではという老婆心(老人妄想心)は止まない。

老婆心がすべて杞憂になることこそが、私の願いである。孫たちの笑い声に耳を済ませ、未来のいまだ見知らぬ聴いたこともない世界子供たちや痛みの声にも、想像力を馳せたい。年寄りなりにやれることを、今しばらく模索します。

今年もつたない五十鈴川だよりを読んでくださったかた、心から御礼申し上げます。来年も中庸、よきいい加減な五十鈴川だよりを打ち続けられればと念います。どうかよいお年をお迎えください。



2023-12-28

ヴィクトル・ユゴー原作レ・ミゼラブル全3巻読み終え、そして想う。

 希望は絶望的な困難の先にあるという言葉を,昨日の五十鈴川だよりに打ったが、その言葉に触発されたのだとおもうが、2日連続五十鈴川だよりを打つ。

嬉しいのは打つ時間があるということと、打ちたくなるおのれがいるということである。ラジオ深夜便で時おり過去の文学者他が残した絶望名言がオンエアーされるのを、今年からたまにだが耳にすることがある。

第一巻の背表紙

いつの時代も困難を抱えながら、窮地のなかでもがき苦しみ産み出されてきた珠玉の言葉に、私は限りなく響いてくるなにかに時おり、限りなく励まされる。文章、文言、言葉の音が、膨大な私の中の無意識領域を刺激する。

無知こそ私の原動力であることは、お恥ずかしきながら、いまもってまったく変わらない。無知を今更ながらこの年齢になってますます感じるような自覚があるのが、微かな拠り所、救いである。

今年11月韓国は釜山を20数年ぶりに旅し、わずか滞在丸3日間であったのだが、普段の生活とはまったく異なる時間を過ごすことができた。(心から出掛けてよかった。なにか無意識に突き動かされないとこういう旅はまず出来ない)

この旅で(海外旅行は10年ぶり)たまたまミュージカル、【韓国版のレ・ミゼラブル】を釜山のドリームシアターという素晴らしい大劇場で見る機会があり、エンターテイメントとしてあまりの韓国の舞台水準の高さにびっくりした。(市内中心部はすっかり洒落た大都市へと変容を遂げていて、その事は舞台芸術分野でも痛感させられた)

そのことがきっかけになって、読んだことがない長編原作がにわかに読みたくなり、遅読の私なのだが旅から戻って時間を決めて集中して読み始めたのだ。2巻まで読み終え、3巻はお正月に読もうと思っていたのだが、思わぬ早さでクリスマスイブに、読み終えてしまった。

長くなるのではしょるが、原作の小説レ・ミゼラブルと映画や舞台のレ・ミゼラブルとのあまりの相違に驚いたことは2巻を読み終えた時点で、すでに五十鈴川だよりで打った。重複は避ける。ともあれ、3巻まで全部読み終えたことで私が学べたことは、読んだものだけにもたらしてもらえる類いの、なにかおおきな実感である。舞台や映画では決して学べない異質なものである。その想いは全巻読み終えさらに強まる。

ひとつだけ記す。ジャン・バルジャンが負傷したマリウスを背負いながら人体の迷路のようなパリの地下、下水道出口を求めてさ迷いゆく描写の前に、何百年にもわたる花のパリの迷路のようにはりめぐらされている、岩盤工事の困難苦難の歴史がヴィクトル・ユゴーのペンで克明に記される。一見物語とはまったく関係がないかのようなのだが、深読みすればあるのである。

この気が遠くなるほどの、何世紀にもまたがる難工事に駆り出されたのが、囚人をはじめとする最下層のレ・ミゼラブルな人々なのである。物語の大団円、レ・ミゼラブルな困難を一身に引き受けたかのような、ジャン・バルジャンは、希望の象徴、生きるエネルギーの根源のコゼゼットへの愛(犠牲)のために(人間は愛する人が一人いれば生きるのである)コゼットの恋人負傷したマリウスを背負い、明かりのない闇の下水道を、希望の明かりを求めて超人となり、歩を進める。フィクションの白眉である。

脱出口で、物語として下水道出口で悪魔のようなテナルディエと出会う。またもやフィクションならではである。ジャン・バルジャンの崇高さの対局にあるかのような生き方のテナルディエの多面的な描きかたは、(映画や舞台はあまりにも悪の側、一面的にしか描かれていない)ジャベール警部にも通じる。ひとつだけ触れたが、複雑な糸が絡み合い、物語とは関係のないような描写がページをめくる度に随所に現れる。

とにかく時代考証背景が綿密、魅力的老若男女多彩な登場人物の描写、自然の描写もしつこく独特で、詩人的感性がときにあふれでる。私が胸打たれるのは浮浪児のガブロウシュ(プサンの舞台でも感動した)の描きかたである。(このような子供が今もガザにもいるような気がする)変幻自在にペンが進んでゆく。

善も悪も含めその人物のキャラが、存在感が際立ってくる筆力。このような小説を私はこれまで読んだことがない。ユゴーでしか書けない、と痛感する。元気なうちに手にすることができた幸運を、老人の私は噛み締めている。

結果、マリウスはコゼットと結ばれる。ジャン・バルジャンはもとの名前になり家を出る。クライマックス、マリウスがテナルディエと会い真実を知る。これ以上は記さない。老いのみに涙が出た。

話を変える。私が読んだ本は新潮社世界文学全集、翻訳者は佐藤朔、1971年に出版されている。私が19才の時の翻訳である。できればもっと大きな文字で新しい日本語での新しい感性での翻訳で読みたい箇所を読んでみたい。いずれにせよ71才もそろそろ過ぎようかという師走、読めたこと、何かのお導きと受け止めたい。老人性塞ぎの虫からの脱出口としては、最適な本、レ・ミゼラブル。タイミング、サイコーのクリスマスプレゼント🎄🎅🎁✨となった。


2023-12-27

【希望というのは困難の先にしかない】年の瀬その言葉を噛み締める、五十鈴川だより。

 昨日で肉体労働バイトは終えた。今日から5日間ただひたすら静かな年の瀬時間を、妻と二人ですごすつもり。打ち始めたとたん我が部屋に穏やかな冬の日差しが眩しいほどに降り注ぎ始めた。

陽光を背中に浴びながら、打てるのはありがたい。一年先がどのような出来事が起こるのかまったく予期できない時代の流れのなか、もう12年も右往左往五十鈴川だよりを打つことで、精神のバランスを取りながら、老いゆく時間と向き合いながら、今年もなんとか自分なりに、充実感をもって過ごせたことに、天に向かって感謝の気持ちである。

夕方図書館を出るとフルムーンが。

何をもってして成熟というのかは皆目未だわからないが、毎年を重ねながら初めて経験する老いゆく時間の過ごし方を、私なりにあくまでも今をいきる一人の生活者としての徒然を、どこか全身にすがりながら、いつもふうふう生きているといった塩梅、それが正直な気持ちである。

コロナ禍ウクライナで戦争が始まり、コロナが5類になりにわかに人々が移動を楽しみ始めた最中、パレスチナのガザエリアで途方もない戦争が勃発、両エリアとも今も終息の兆しも見えず、遠い異国の一老人である私も、時に塞ぎの虫になる師走である。

だが、塞ぎの虫(読んだことはないが塞ぎの虫というタイトルの小説がある)に陥ったところでなにもいいことはない。五十鈴川だよりはあくまで能天気、でくの坊、どこか馬鹿馬鹿しい、イワンのバカならぬ、五十鈴川だよりバカでありたいと想う気持ちは、古稀を過ぎ深まってきつつあり、自在に静かに、しかし時おり蟻のように生き発言したい。

それが叶わなくなったら、五十鈴川だよりを打つのは潔くあきらめ、風に吹かれる旅人になりたい、とおもう今日の私である。五十鈴川だよりを打つことで、かろうじて自分と向かい合う一時を確保し、老いの体を蛇行しながら、このままでいいのかいけないのかと、老いゆくハムレット時間を大事にしたい私である。

能天気に打つが、生活に、体に新鮮な活力を与えてくれる本というまるで魔法のような宝、読書の喜びを、69才での人生で初めての手術以後、以前にもまして感じられるようになってきた。遅読ではあるがよい本に出会うと、未だにからだが活性化する。悪い言葉、ひどい言葉に出会うと心は病む。つくづく人間は言葉でできているのだと痛感する。

ところで、昨日夕方図書館に行き、わずかな時間ではあったが、詩人の長田弘さんと今はなき河合隼雄先生の対談集を目にしたのだが、長くなるのではしょるが,その中に【希望というのは困難の先にしかない】という言葉が目の飛び込んできた。振り返ると18才で世の中に出て以来何回も分かれ道が訪れて来たのだが、あえて楽な道ではなくより困難な道を選んできた。

結果、その事がよかった。だからこそ今を生きていられる自覚がある。私との交遊が長きにわたって続いている友人知人は困難な道を選択している方がほとんどである。類は友を呼ぶというが、そういう得難い家族を含めた友人知人に巡り会え、おかげで今年もなんとかよい年の瀬時間迎えることができ、感謝するほかはない。


2023-12-17

年の瀬、森岡毅氏の【マーケティングとは組織革命である】を読み、そして想う。

 師走も半ばを過ぎちょっと寒い(これが当たり前)日曜日の朝だが、私は未だ我が部屋では暖房器具を使用していない。私ごときのせつぶんブログであれ、手をさすりながら打つくらいの方が老いの頭がつむぐ一文としてはいいのだという、痩せ我慢的な煩悩が働くのである。

ビジネス書の枠を越えている

世界の数多の、圧倒的大多数の人々が否応なく抱え込まざるを得ない困窮状態を、我が国の年末の喧騒をよそに静かに想像してしまう島国の一老人としては、ただ静かに年の瀬を生きている、私である。

ところで、レ・ミゼラブル第3巻はちょっと中断して(お正月集中して読むことにした、今年は夫婦二人のお正月だから時間がある)マーケティング介の勇者として、その名をとどろかせている森岡毅という方がかかれた本を読んだ。よもやまさかビジネス書を読もうとは思いもしなかった。お恥ずかしながら、片寄った好きな狭い世界の本を、それもわずかしか読んでこなかった私が、初めて読んだビジネス書が森岡毅さんの【マーケティングとは組織革命でである】。

業界用語や、今となっては老いた我が生活に関係のないところは、すっ飛ばして、今の私の生活にも刺激をいただけるようなところだけを、拾い読みしたのだが、このような若き侍のような、画期的とでも呼ぶ他はない、創造的なクリエイターが私の義理の息子たちくらいの世代から続々登場していることに、清々しい刺激を年寄りの私が受けたことを、なんとしても五十鈴川だよりに打っておきたいのである。

まず本の巻末の、4人の方との対談、セブンイレブンの創設者である鈴木敏文氏、作詞家の秋元康氏(他にもいろんなことをされている)湖池屋社長佐藤彰章氏、クリエイティブディレクターの佐藤可士和氏の4人の方との対談を読むだけでも価値があった。そして森岡さんのマーケターとしての誇りが満ちた本のあとがきに打たれた。素晴らしい。(古い思い込み世界に耽溺しがちな私は、目から鱗、大いに反省している)

時代の先端で颯爽と閉塞感をぶち破る発想力と行動力、知的胆力、戦闘力、総合的センスが、随所に溢れていて老人の私が読み物として読んでワクワクした。ワクワクしなくなったら終わりである。

森岡毅さん(と呼ばせていただく)のことを知ったのは、ラジオ深夜便の午前4時からの明日への言葉のコーナーで、たまたまお話を聞いたことによる。何に打たれたのかを説明できる言葉を五十鈴川だよりで打つのは難しいが、一言で言えばドリームオブパッションである。業績がが振るわず喘いでいたうUSJを7年賭けてVじ回復させた伝説的マーケターである。(その事をまったく私は知らなかった)

業績の振るわない組織を覚醒させ、夢を育める組織へと変革し、業績をあげるための方法論、森岡さんしかなし得ないオリジナル方法論が的確に示されていて、びっくりしたのである。

本当に物事を発想し、思考実践できる稀な人が、経済界(の枠を越える思想哲学がある、日々肉体労働している私でさえ学べるところがあるし、どうしてこのような方が生まれたのかにも関心がある)の今の日本にいることに安堵したのである。

このような新しい日本人の出現が、ややもすると時代の気分、空気に流されがちになる一老人の私に与えてくれ、にわかに単細胞の私としては明るい気持ちになれたのである。(おかげでよき師走時間を過ごしている)

長女にはこの本を是非読んでもらいたく、クリスマスプレゼントに送るつもりである。おこがましいが、私がこれまで企画してこれた原動力とも、分野は異なるが重なるところがあり、(一人でもやれるという)そうだそうだと老いの膝を打ったのである。例えば、組織を人体に例える。何一つ無駄がなく機能しないと体は、(組織は)幸福にならないという発想。

上下関係ではなく、対等関係、それぞれの得意な居場所で自分のスキルアップをはかり、連動し繋がり、生き生きと働ける組織を作る。凡人の私は深く感じ入った。新しい資本主義、民主主義、なんといっても根底に夢がある。

このような人の家族はきっと楽しさが溢れているに違いない、と私は想像する。我が家族もそうありたい。若い人から学ぶ勇気力を年寄りの私も持ちたい。ささやかであれ、からだの許す限り老いの持続力をキープし、微かにであれ成熟したい。ラジオ深夜便に耳を澄ませていたお陰で稀代のマーケター、森岡毅さん、ヴィクトル・ユゴーのレ・ミゼラブルと、間接的に出会え、2023年の年の瀬よきひとときが過ごせている。


2023-12-09

師走【レ・ミゼラブル】第2巻を読んで想う、五十鈴川だより

12月二回目の お休みの朝、師走も早9日である。前回レ・ミゼラブルを読んでいることを打った。12月はじめての五十鈴川だより、この間日々の労働、生活の合間合間に、レ・ミゼラブル第2巻(487ページ)を読み終えた。いよいよ第3巻に入る。全部で1500ページの長編である。このような長編小説を読むのは、我が人生で初めてである。

釜山で観たミュージカルのパンフレット

2巻を読み終えた時点で、この小説を手にしたことの幸運を、師走、噛み締めながら五十鈴川だよりを打っている。大河ドラマ、大叙事詩19世紀フランスヴィクトル・ユゴーが生んだ小説レ・ミゼラブルは、一人の人間が生涯を賭けて心血を注いだ途方もない作品であると言うことが、老人の私にも腑に落ちる。(とだけ打っておこう)

ユゴーが若いときから書き綴り、途中、中断して晩年再び書き上げたと解説で知った。ユゴー自身19世紀フランスの激動の時代を生き、私生活含めあらゆる困難を生き、その壮絶な人生のすべてをレ・ミゼラブルに投影している(のだ)。一筋縄ではゆかない人間という生き物への観察が随所にしつこく込められている。(病的といっていいほどだ)

フィクションであることをまず踏まえながらも、その細部の、例えば当時の歴史や時代背景、地理、流行風俗、人々の町や人物の特徴描写力は半端ではない。大きな幹の物語を芯に据えながら、枝葉の部分を自由自在に時間の経過も含め行きつ戻りつ、螺旋状に展開して行くのだが、正直よもやまさかこのような小説であったのかと今更ながら驚き、本当にこの年齢だからこそ染み入るように読めている自分がいるのだ。映画や舞台ではまったく描かれていない、ほとんどカットされている。小説でしか表現し得ないことが書かれているのである。

その事は、全部読み終えてまた打つことになるかもしれないが、このような全体小説というか、登場人物たちが時代の(おかれた)なかでもがき苦しみ、なおかつ生きることを、善悪含め選択してまるごと描く壮大な思想哲学小説が、【レ・ミゼラブル】なのである。

ガザエリアの報道に接する度に、レ・ミゼラブルの置かれた当時の人々とガザエリア、の人々の置かれた状況があまりにも重なるのには驚きを禁じ得ない。

飢えたことも身近に爆弾が炸裂し、大切な家族を失ったこともなく、理不尽に血を流したこともない島国日本で平和りに生きていられる一庶民老人には、痛みや想像力の限界があるのを百も承知で打つが、人間がやっていいことといけないことの限界がとうに越えていることは、ガザエリア(どちらの側にりがあることの問題ではなく)の事実が示している。食い物と水がないと生き物は死ぬ。

穏やかに生きられる島国の年寄りの一人として、声をあげ世界の良心ある人々と共に声をあげ続けたい。ヴィクトル・ユゴーはレ・ミゼラブルを書くことで、レ・ミゼラブルな人々に寄り添い(目をそらさず)人間とは何か、悪心と良心とを行き来しまるごとぜんぶ描くことを、闘争した作家であったのだと気づかされる。自分自身も生涯内的葛藤を続けていたのに違いない。このような作家がいたのである、19世紀に。登場人物のすべてが、ジャン・バルジャンだけではなく魅力的に人間として描かれている。一面的ではないところが素晴らしい。