めっきり五十鈴川だよりを書く回数が減ってきた。書かなくても、平気になってきた、もう十分に身の程知らずにも書いてきたものだという気もする。
自分でいうのもなんだが、人生時間が少なくなるにつれ、より真面目に学ぶ、知る時間が増えてきている、そのことが書くよりも面白い。それが五十鈴川だよりを書く回数が減ってきている一番の要因だと思う。
還暦を過ぎ、老いを見つめつつの日々の身辺雑記録を綴る体で書き始めた五十鈴川だよりであるが、パンデミック狂騒といっていいほどのコロナウイルスの猛威の前に、ありきたりの私のうちなる言葉は、無残にも打ち砕かれてしまった。(のだ)
こういう人生で初めて経験するウイルスの猛威の前には、コトバを発するのが億劫になり、増して老いつつあるわが体を、直撃するこの夏の暑さの 前に、初老凡夫はなすすべがないというのが、正直なところ。
でもまあ、幾分朝の時間は猛暑が和らいできたし、何かを綴る元気が湧いてきたので、しばらくは文字だけの写真なしの五十鈴川だよりになるが、元々18歳から世間に出て、満座に恥をさらしながら生きてきたので、この期に及んでという気もするし、やがて自然に書けなくなるのであるから、回数のことは考えず、書こうと思ったときには書く、わがまま五十鈴川だよりである。
さて、今も続く予断を許さないコロナ渦中のなか、もう5カ月以上、降ってわいたような静かな初老夫婦時間を過ごしている。幸い、お互いフルタイムではない仕事があり、社会的な活動もしながら、ほとんど遠方には出かけない自主的自粛生活を送っている。
子供たちが自立してから、こんなにも二人きりでの時間は初めてである。ヒトという生き物は状況に合わせて変化する。状況にうまく適応できないと、いろんな問題が生じてくる。さて我が家の場合はどうか。一言でいえばうまく回っている。詳細は省く。
子供が自立し、以後の夫婦時間の過ごし方で生じる、様々な老いつつ生きる諸問題、この半年間近くのコロナ渦中生活の中で、今も考えさせられている。ただ一言言えるのは、初老夫婦が穏やかに過ごすのに一番の大切なことは、やはりお互いがまずは健康体であることである。
そして相手を思いやるということに尽きる。家族に何事かが起こった場合は、五十鈴川だよりは、直ちに休筆する。人生本当に一瞬先はわからない、そのことをコロナウイルスは私に教え知らしめる。頭にではなく身体に。当たり前に享受できていることなんて、あっという間に消えてゆくという厳然たる事実を。だから今日をいかに生きるのか、そのことを初老凡夫はかろうじて今も考える。永遠にハムレットの言葉は星のように輝く。
このコロナ狂騒の中、シェイクスピア作品を読むと、頭にではなく体の肺腑に言葉が以前にもましてしみてくる。シェイクスピアのコトバは、非常事態生活の中で一段と輝く。