11日ぶりの五十鈴川だよりである。えーっそんなに書かなかったのかと我ながら驚く。
初老凡夫が自分自身をセラピーするかのように、自己満足的に書き綴っている五十鈴川だよりだが、こんなに書かなかったのは珍しい。
なぜ書かなかったのかを、つらつら書く気にはならない。ほかに優先してやりたいことがあったことと、誤解を招かないように想うのだが、コロナ一色報道にいささかうんざり、していた(いる)からである。書けばあらぬ誤解を招きそうで、小心者の私としては避けるのである。
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妻の丹精のおかげ、今年も咲き始めた我が家の蔓バラ |
画面を眺めるよりも、天然の地面や空、雲の流れ、変化する月、多種類の樹木の新緑の日々の葉っぱの変化、つまりは大いなるものを眺め、触れ、対峙している方が気持ちがいいからである。
誰もいない公園で、雨上がりの水たまりを裸足で踏みしめ歩く。まっすぐ意識して立ち、足裏全体重力に任せ大地を踏みしめる。大地が足裏マッサージをしてくれる。
10分以上歩くと小石にもまれ、足裏がじんじんする。老いゆく身体の毛細血管に血が行き渡り、じんじんしだしたらやめて足を洗い靴下をはく。気持ちがいい。もう私はできる限り、正直に身体が喜ぶことしかやらないようにしようと、思考する。
できる限り画面に頼らず、文字に頼らず(頼るのだが)直観を鍛え感覚に頼る、虫のように。時代遅れの(で構わない)昔人のようにありたいと願う。目に頼らず、耳を澄ます。ゆっくりと歩く、老いを受け入れあらがわない、初老凡夫を生きる。情報にふりまわされず、自分の体が発する声に耳を澄ます。夜は手元だけ照らし、余計な明かりは避け、小さい頃のようにうす暗い中で集中して本を読む。
幸いなことに、転がる石ではないが、本が本を呼ぶ。学ぶことは至福である。ありがたい、いまだ体は転がる。それを子供のようにできる無心で、楽しめる躰でありたく念じる。念じるという字は、今と心で成っている。老いつつますます手で字を書くことを心かけている。発見がある。今日一日の中に安らぐ生を見つけて過ごす。
今現在の自分なりの非常事態(といわれている)自粛生活 を有意義に気持ちよく過ごしていたら、五十鈴川だよりを書かなくても、依存しなくてもいい日々が今のところ送れている。(からである)
コロナのおかげでヒトとの接触が極端に少ない生活をもう2カ月以上もしている。妻には縁起でもないとよく言われるのだが、私は以前にもまして死について真面目に考えている。(気がする)人は不安になり、病や死を恐れる。私だってそうである。何故か?考えるのである。結論が出なくても考えるのである。そして日々いかに生きるのかを。
どこで死にたいかについては、10日前に書いたので重複は避ける。もう五十鈴川だよりでは何十回も書いていると思うが、メメントモリ、死について考えないのは、生についても考えないのと同義である。過労死してまで、ヒトは何故汗水流して働くのか、ハムレットは死を恐れるからだというが、果たしてそうか?自分を愛せずに人を愛せるのか?経済の、金の奴隷でいいのか?永遠のスフィンクスの謎?ヒトは永久の謎を闇を生きる?
いきなり話は変わる。個人的な事だが、高校生の時に演劇に出会ったおかげで、一回限りの右往左往人生を歩むことになり、あれから半世紀以上、よく生き延びたという感慨と共に、一歩判断を見誤ったら、とうに自分の人生は なかったであろうとも思う。なぜ生き延びることができたのかは、演劇を学び、複眼的な思考をいくばくか学んできたおかげなのと、運に恵まれたからである。
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五十鈴川だよりを書いているとやってくる花、天然である。 |
人生は一回こっきりである。ギリシャの時代から、2000年以上演劇という古い芸術は続いていて人間の存在の謎を問うている、善悪を、悪魔と神を、この世とあの世を、【今現在も】、感動する。
このAI時代でもいまだ生身の人間が舞台やスタジオで演じている。たとえオンラインの画面越しであれ、画面の向こう側では生身の人間が体で声を放っている。
話は飛躍するが、この体というかけがえのない唯一無二の存在は老いや病、死という摂理からは逃れようがない、壊れやすく移ろう器である。いやでもその自分の体について考えるようになったのは、声を出す器としての無二の躰、演劇をまなんおかげである。
死はまるで事故のように突然訪れるとの賢者の言葉がある、コロナウイルスのおかげで、逃れようのない摂理としての死への覚悟がわずかではあれ深まってきたのは、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。